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こういう考え方の筋道を、疑いなく自然にとってしまうところが、普通の人がいかにものを考えずに生きているか、他でもないその証左と私は思う。哲学が「自分探し」とは無関係なら、宗教だって本来そんなふうにはじまったわけではなかろうと、なぜ考えずにいられるのだろう。「役に立つものとしての宗教」、というアタマでいるなら、それはオウムと同じではないか。ハマったか、ハマらないかの違いにすぎないではないか。


「考える」という言葉が正当に使用されていないと私は言った。同様に、「信じる」という言葉もそうなのだ。オウムの人々が前世や来世を信じているといって笑う人々も、現世のみがこの世であり、この世は金だと信じている。信じて、考えたことがない。考えずに信じられていること、信じられているその対象の何であれ、ひとしくこれを「信仰」と私は呼びたい。


p144,145
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論理によっては何にも辿りつかない。そもそもの論理の性質が二元論を基にしているので、それは結局のところ「白か黒か」とか「上か下か」とか「俺か俺以外か」といったローランド節に終始するだけである。


が、真理の探求を始める前に人は考えなければならない。私自身、「昔は」毎日腹の底から笑い、同性にも異性にもチヤホヤされ、勉学もスポーツも井の中の蛙ではあったがある程度のレベルにあった。が、ある日疑問が生まれるのである。
「これで終わりなのか?」「幸せはどこにあるのか?」「これがこれから先何十年も続いていくのか?」


それから色んな本を読んだり人と出会ったり瞑想したりといったことが起こったわけであるが、そういったことが突然と起こるわけではないのだ。人はまず考えなければならない。
「考えなければならない」などと私は書いているが、本当はそんなこと一度も思ったことはない。どうにかこうにか、自分が幸福に生きるために考えるというのは当たり前だと思っていたからだ。


が、池田晶子も同じことを書いているのだがどうやら多くの人にとってはそうではないらしい。スピリチュアル界隈の引き寄せだとか、現実化だとか、あるいは普通の人にとっての政府だとか、薬を飲むことだとか、ニュースで言っていることだとか…。どうやらそれを「本当か本当でないか」と考えることすらやめてしまっているようである。


本質的なことを言えば考えたって考えなくたって良いわけなのだが、では誰が困るかと言えば当の本人だけである。毎日必死に理想の現実をビジュアライゼーションしたのに何も起こらなかったり、自民党に投票したせいで困窮したり、薬を飲んだせいで身体にストレスを溜め込んだり、ニュースを見てワクチンを打ったせいで苦しんだり…。それを他人に強要したりもするだろうが、結局は巡り巡って当人が苦しむことに変わりはない。


別にワクチンが悪いわけではない。また良いわけでもない。問題は、その一面的な情報「ニュースで打った方が良いと言っていたから信じる」あるいは「陰謀論者が唱えていたワクチンの害を信じる」、そのどちらにしても「信じている」というところにあるのだ。どちらの情報にも目を通して、その上で判断する。…といった書いていて恥ずかしくなるような基本的なことが必要なだけである。


ま、無理に考えることもないのだ。今の地球は期間限定キャンペーン中らしく、現実の方が否応なく私たちに考える機会を与えてくれる。そして考えない人たちはもれなく明確に苦しんでいる。政党の投票率だとか、ワクチン接種率だとか見てると明確に数字としてこれだけの人がこうですよってのがわかるわけだが、まあそれはそれで観察している身としては楽しいものである。


池田晶子の本は結構種類があるがこの「睥睨するヘーゲル」はなかなか良い。何が良いかってのもまあうまくは説明できないのだが(は?)、それぞれの本でそれを書いた年齢だとか調子だとか色々あるわけで、この本は調子が良さそうなのである。まあとにかく私が一冊最後まで読めたということは良い本なのだ、多分。池田晶子の本を図書館からまとめて10冊くらい借りたのでまた何か目ぼしいものがあれば記事にするかもしれない。


あ、大事なことを書き忘れていたが池田晶子は哲学者だ。慶應の哲学科卒であるわけだからFラン大学中退の私とは随分と差をつけてくれたものである。劣等感は隠せないものの、他の意味不明で複雑な日本語を使うことによって他人はおろか自分すらも煙に巻くタイプの99.9%の哲学者より優秀であることに変わりはない。あと目を見張る哲学者といったらプラトンくらいだろうか。そのプラトンだってその著作の中にソクラテスが出てくるからまだマシな体裁を保っているだけな感じもするので、結局のところ哲学書なら池田晶子一強である。




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