回転寿司で回っている寿司に唾をつけた少年が話題になっている。私の情報源がTwitterや5chなので詳しいことは知らないのだが、これ以外にも多くの飲食店の商品に対するイタズラ動画を多く見かけた。



で、案の定多くの人がこれを叩いているわけであるが、私は何とも言えない気持ちになる。寿司舐め太に対してではない…これを叩いている人たちに対してである。

寿司を舐めることが悪いというのは誰の目にも明らかである。私だってそんな寿司は食べたくないし、店側にも不利益になっているのだからそれが一般的に言って「悪い」というのは明らかであろう。これをわざわざ「悪い」と吠えている人たちは何が目的なのだろう? ストレスか? 自分の人生の惨めさへの当てつけか? 他人の不幸を指摘しなけりゃ自分が幸福であると感じられないか?



「いやいや誰かが『悪い』と言わなきゃ」と思っている人は、「自分こそが指摘しなければ」と特別意識を持っているのかもしれないが、現在無数の人が叩いていることによって、まさに自分自身が「特別だと思いたい特別ではない人」ということを証明しているのである。



そもそも寿司舐め太はどのようにして生まれたのだろうか? 外界からは絶対的に遮断された四面真っ白の密室で何の情報も教育も与えられずに育てられたモンスターだろうか? そんなわけはあるまい。彼は我々大人たちが作り上げた社会に後から新規参入した後輩なのだ。



そして彼一人に限らず多くの「擬似寿司舐め太」がいるようだが、ともすればその社会側に責任があるのではないだろうか? 叩いている人たちは自分に責任はなく、「彼」が単独で行動したなどと考えているのかもしれないが、その無責任感はまさに寿司舐め太と同レベルであることに気づいているのだろうか?



私は寿司舐め太を見てもあまりうんざりしない。「ああ、こうすることによって注目を集めたかったんだなぁ。今までの人生で愛情や注目を与えられなかったのだろう」で終わりである。が、これを叩いている人たちは動物的に怒りを吐き出しているだけだ…そこに「も」思慮も知性もない。



こういった寿司舐め太を生み出した要因の一つとしてTwitterなどのSNSが理由にあるのだろう。「自分は呟いてるのに注目されない。一方で多くの人に注目を浴びている人がいる。ということは自分には価値がないんだ。もっと自分に価値があることを証明しないと」といった形でスポーツ選手のようなことを言う知性を持った人間が生まれるわけである。



もちろんこういった人が生まれないように教育することはできうる。瞑想であったり、あるいは池田晶子のように徹底的に考えることで頭が論理的に納得するということもありうる。現代では瞑想というのもなかなか受け入れられないであろうから、子供たちには徹底的に「価値」とか「比較」とかについて考える時間を与えると良いのかもしれない。



ん…要点…?

子供たちに対してそういった思慮すらできないバカはせいぜいおとなしく黙ってろって言ってんの!😡



にしても自分の文章を読み返してみると、今読んでいる池田晶子の本の文章に影響を受けたのか読点が増えている気がする。結局人は環境から生み出される抽出物に過ぎないのである。



結局は

私も一種の

寿司舐め太

舐めたらあかん

舐めたらあかん

人生舐めずに

寿司舐めて




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