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あるところにコバエ🪰がいた。ぷ〜ん。ゾウ🐘の頭の上に止まる。

そしてそのゾウは歩き出し、目の前には吊り橋がかかっているのでのっそのっそとその上を歩いていく。

ゾウが吊り橋を渡り終えるとコバエは誇らしげにこう言う。

「あたしゃ〜こんなにも吊り橋を揺らしたんだね! やっぱり大したもんだよあたしゃ」

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これはOSHOの「エンライトメント」に記載されていた…はずの例え話だ。もはや読んだのが10年くらい前なので記憶も曖昧だが、こんな感じの例え話があったことだけは記憶している。





よくエネルギーの象徴としてゾウは使われる(ゾウって漢字も入ってるし)。寓話として地球の下をゾウが支えているとか、インドのガネーシャとかは聞いたことがあるかもしれない。禅の十牛図なんかも…と思ったらあれは牛だった。



とにもかくにも、私たちはそういった強大なエネルギーにあやかっている矮小な存在なのだ。にも関わらず、「私の力で」とか「私が偉大なことを成し遂げた」などと言ったりする。コバエだ。



非知性的な人はこのコバエのようにやたらと喚き散らかし、知性的な人は「お陰様で」と謙虚になる。この「お陰様」を調べてみると、どうやら語源は「神仏の偉大なものの陰でその庇護を受ける」という意味らしい、うつくC。



今現在謙虚でなくても「お陰様です😡」と言い張り始めるのが「南無阿弥陀仏」と称える道だ。最初は仏様のお陰だなんて思っていなくてもいいのだ。が、繰り返し称えているうちに「もしかして仏様のお陰かも😠」と顔の赤みと自我が落ちていく。

自我もコバエもゾウから振り落とされるのだ…まさにゾウ自身の力によって。




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