本来の私たちは観照者だ。肉体は朝起きて、歯を磨いて、飯食って、クソして寝る…。その間にありとあるゆる愚行を重ねたり善行を重ねたりするが、本来の私たちは何もしていない。これらのエネルギーが舞い起こっている空間である。
そしてこの肉体はプログラム通りにしか動けない。「瞑想しよう」「ポジティブでいよう」「楽しもう」…どんなことを推奨しようがそういったことが起こらない人には起こらない。
ではなぜ私も含めそんなことを書く人がいるかといえば、表面的な因果関係もあるからだ。「『瞑想しよう』と書いてあるのを目にしたことによって瞑想するようになった」というプログラムが仕込まれた人もまたいるのだ。
「何もかも決まっている! だからそれを楽しもう!」ということが言いたいのでもない。まさに今日楽しめない人は楽しめないし、災難が降りかかる人には降りかかる。「惨めさを回避しよう」とか「それを回避する方法を模索しよう」などと考える必要はない。そんなことを考えなくても私たち生物は自然とこの惨めさを回避するように動くからだ。
もし意識して私たちがすることといえばその惨めさと同化しないことだ。この肉体に授けられたプログラムを避ける方法がなく、「その出来事を無理やり楽しむ」といったことも難しいのだから、結局私たちは観照者として留まって、それを観ているのが最大限にできることである。
最近この観照者として肉体に起こることを観ていて思うのだが、私たちはまさにこの惨めさを感じるために生まれてきたのではないかとすら思う。
私たちは1枚の板チョコ(観照者、宇宙、全体)だった🍫。(突然…?)
激甘である。当然「1枚の」板チョコであるため「他」を認識する術はない。1枚の板チョコしかないのだ、誰が誰を認識できよう?
しかし宇宙のいたずらで宇宙は分割され、1つのブロックにチューブわさび🟩が落とされた。すると1枚の板チョコは「他」を認識する。
🍫「なんかチューブわさび着いとるが」
そしてチューブわさび側もまた疑問を抱く。
🟩「なんか全体とワイは別々のもんらしいが」
そしてさらに宇宙のいたずらによって、チューブわさびだけではなくチューブからし🟨が着けられる。
🍫「はえ〜ワイって激甘だっただけじゃなくこんな辛味もあったんやな…」
🟨「おっチューブわさびやんけ! お前はワイと違って緑色なんやなキッショいわ。しかしまあワイと全体は無関係やな」
こういった宇宙の気まぐれによって板チョコに様々な味付けがされていく。ピザ味🍕だったり唐辛子味🌶だったりするかもしれないが、どれを取っても依然として板チョコに味付けされたものには変わりないのである。
が、私たちは板チョコであったことを忘れてしまう。あまりにもチューブわさびやら何やらの味が濃すぎて元の甘さを感じられないのだ。が、元はといえば「激甘」だったからこそわざわざ「激辛」とか「ピザ」の味をつけて楽しんでいたのだ。もしどちらかに価値があるかといえば、本来の板チョコ側からすれば間違いなく「激辛」「ピザ味」の方だろう。
激辛ならまだわかりやすく「ヴォエ! こんなんもうやめたいわ」と言えるかもしれないが、この宇宙の味付けは絶妙であり、ピザ味のように「もっと食べたいんじゃ〜😋」といった中毒作用がある。であるからして、ピザのような味付けをされた人はわざわざ板チョコの味に戻りたいとは思わないだろうし、激辛の味付けをされた人は「こんなもんやめてやる! さっさと板チョコの激甘に戻させろ!」と言うのだろう。
だから真理の探求に赴く人は得てしてろくな人生を送っていないのだろう。
😡「もうこんな味の人生嫌なんですけど。チューブワサビだけじゃなくて唐辛子もピザも味わいました。でも全部激マズです」
といった人が板チョコに回帰するのだ…ほとんどの人はこの「色々な味」を味見しては食べ物を変えることを繰り返してその一生を終える。
が、本来の私たち板チョコにとってはどっちでもいいのだ。そもそも板チョコが板チョコであることに変わりはない…これからも永遠に板チョコだ。そこにチューブわさびが着こうが、それがまた純粋な板チョコに戻ろうが、ずっと、ずっと…ずっチョコだ。
書き終わった後にふと「なぜ板チョコなのか?」と疑問が湧いてきたが、恐らくバレンタインが近いことにより近所のスーパーにでかでかと板チョココーナーがあったことに起因しているのだろう。
私はいわゆる「のっぺりした普通の板チョコ」があまり好きではなく、クランキーなどのサクサクしたやつが好きだ。もちろんクランキーに飽きればホワイトチョコを食べたりするかもしれないし、明治、ロッテ…とメーカーを変えたりするかもしれない。
この宇宙、観照者の目的なんぞ我々の知性で計り知ることは到底できないであろうが、恐らく大したものではないのだろう。恐らくは私たちが色んな味のチョコを味わいたいように、この宇宙も色んな味を味わいたい…のかもしれない。
ちなみにアシュタヴァクラは当時12歳のインドの覚者で、「アシュタヴァクラ・ギーター」はそんな彼に教えを乞うた王様のジャナクとの対話である。
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土、火、水、風、空─
あなたはそれらではない
もし自由になりたいのなら
あなたはこれらすべてを観照する真我
覚醒のハートだということを知りなさい
(p34)
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身体のことは忘れ
あなた自身の気づきの内にとどまりなさい
たちまち、あなたは幸せになるだろう
永遠に安らかに
永遠に自由に
(p34)
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あなたにはどんな階級もない
どんな義務もあなたを束縛することはない
あなたは形をもたず、自由で
感覚では捉えきれない
すべてのものごとの観照者だ
だから幸せでありなさい!
(p35)
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正や不正
喜びや悲しみ
これらはたんに心が生み出すもの
あなたはそれらではない
行為をしたり、喜んだりするのは
本当はあなたではない
あなたは遍く存在し
永遠に自由だ
(p35)
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あなたは永遠に自由な
すべてのものごとを見守るただ一人の観照者
だが、もし自分自身を分離した存在と見なすなら
そのとき、あなたは束縛されている
(p36)
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「私はこれをする。私はあれをする」
利己主義の黒い大蛇が
あなたに噛みついたのだ!
「私は何もしない」
これこそが信頼の甘露
それを飲み干して
幸せでありなさい!
(p36)
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あなたは一なるもの
純粋な気づきだ
それを知りなさい
この確信の炎で
無知の森林を焼き尽くしなさい
悲しみからあなた自身を解き放ち
幸せでありなさい!
(p37)
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幸せでありなさい!
あなたは歓喜、限りない歓喜だ!
あなたは気づきそのもの
ロープを蛇と見間違うように
あなたは世界を見間違えたのだ
(p37)
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真我は世界のように見える
だが、それはただの幻
真我は遍く存在している
ひとつであり
静かで
自由で
完全だ
行為も執着も欲望もなく
すべてのものごとを見守る観照者
気づきなのだ
(p38)
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わが子よ、
自分は身体だと考えるために
あなたは長い間束縛されてきた
あなたは純粋な気づきだと知りなさい
この知識をあなたの剣として
鎖を断ち切るのだ
そして幸せでありなさい!
(p39)
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あなたの本性は純粋な気づき
あなたはすべての中に流れ
すべてがあなたの中に流れている
ただ気づきなさい
狭き心に!
(p40)
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あなたは常に不変で
限りがなく、自由であり
穏やかで、かき乱されない
計り知ることのできない気づきだ
ただ自己の気づきだけを求めなさい
(p41)
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