瞑想を始めてからなぜか尊敬されるようになった。昨日歯医者での愚行について書いた通り、私は日々尊敬に値しない行為を繰り返しているようにも思える。…のだが、なぜか個人と個人で向き合った時はよく尊敬される。



大衆にはむしろ嫌われていると感じる。…のだが、なぜかそこにわずかでも関係性が生まれると尊敬されるのだ。大乘住職を導いていたアサンガというインド人もよく「下手すると尊敬されちゃうぞ」と、尊敬されがちな大乘住職に注意喚起(?)をしていたようだが、なぜだかこの瞑想にはそういった効用があるらしい。



なぜだろうとずっと疑問に思っていたのだが、どうやら「その場その場で相手の必要性を満たしているから」というのが答えなのかもしれない。

昨日の記事で「おっぱいと情熱(パッション )」について触れたが、OSHOが「性と情熱(パッション)と慈愛(コンパッション)」について語っている講話を見つけた。尊敬されたい人にとっても参考になるかもしれない。



にしても、得てして真理というのは逆説的である。私のように全く尊敬されたいという願望がない人間が尊敬される。見た目からしても、上下ウィンドブレイカーにダッフルコートを羽織っているだけの防寒全振り、運動靴、鼻マスク、無精髭…警察に声をかけられてもおかしくない(まあかけられたんだけど)見た目にも関わらず、それでも尊敬される。



かといっていわゆる「逆張り」で浮浪者のような格好をしよう、というのもまた違う。その人がまさにその人自身でいることによってその場の必要性を満たすのだ。であるからして、金ピカのネックレスをつけまくったり怪しげなサングラスをつけることがその人自身の必要性であることもまたあり得る。ま、とはいえそういった人の多くはただ自分を大きく見せたいだけだったりするんだけれども…。



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https://www.osho.com/ja/read/featured-articles/other-myself/the-therapy-called-compassion

慈愛という名の療法

慈愛という名の療法

あなたは以前、「癒す力があるのは慈愛だけだ」とおっしゃいました。慈愛について話していただけますか。

 そう、癒す力があるのは慈愛だけだ――なぜなら、人間の中で病んでいるものはすべて、愛が欠けていることに原因があるからだ。人間の中でおかしくなっているものはすべて、どこかで愛と関連がある。彼は愛することができないままきてしまったか、あるいは、愛を受け取ることができないままきてしまった。自分の存在を分かち合うことができずにいる。それが惨めさだ。それが、内面にあらゆる類のコンプレックスを生みだす。

 内面のこれらの傷は、多くの形で表面化しかねない。それらは体の病になりうる、心の病になりうる――だが、深いところで、人間は愛が欠けているために苦しんでいる。体には食べ物が必要なのとまったく同じように、魂には愛が必要だ。体は食べ物がなければ生き延びることができない。そして魂は、愛がなければ生き延びることができない。実際には、愛がなければ、魂はけっして生まれない――生き延びることなど問題外だ。

 あなたは自分には魂があると思い込んでいるだけだ。死の恐怖ゆえに、自分には魂があると信じている。だが、愛したことがない限り、あなたは知ってはいないのだ。愛の中でのみ、自分は体以上のものだ、マインド以上のものだと感じるようになる。

 慈愛には癒す力があると私が言うのは、そのためだ。慈愛とはいったい何なのか? 慈愛とは、愛のもっとも純粋な形だ。セックスは愛の最低の形、慈愛は愛の最高の形だ。セックスでは、触れ合うのは基本的に体の部分だ。慈愛では、触れ合うのは基本的にスピリチュアルな部分だ。愛では、慈愛とセックスの両方が混じり合っている、身体的なものとスピリチュアルなものの両方が混じり合っている。愛はセックスと慈愛の中間点なのだ。

 慈愛を祈りと呼んでもいい。慈愛を瞑想と呼んでもいい。エネルギーの最高の形が慈愛だ。「コンパッション(慈愛)」という言葉は美しい、その半分は「パッション(情熱)」――どのようにしてか、情熱がもはや情熱ではないかのように純化している。それは慈愛になった。

 セックスで、あなたは相手を利用する。相手を手段に貶める。相手を物に貶める。性的関係であなたが罪悪感を抱くのは、そのためだ。そのやましさは宗教の教えとはまったく関係ない。そのやましさは宗教の教えよりも深い。性的関係そのものにあなたは罪悪感を抱く。罪悪感を抱くのは、あなたが人間を物に、使い捨てにする日用品に貶めているからだ。

 セックスで、ある種の束縛を感じるのもそのためだ。あなたもまた物に貶められている。そして、あなたが物であるとき、あなたの自由はなくなる。あなたの自由があるのは、あなたが人であってこそだからだ。人であればあるほど、自由は大きい。物であればあればあるほど、自由は少ない。あなたの部屋の家具には自由はない。鍵をかけて部屋から出て、何年後かに戻ってきても、家具は同じ場所に、同じようにあるだろう。それが自分で自分を新たに配置換えすることはない。その自由はない。だが、もしあなたが部屋にひとりの人間を残して置いてきたら、同じ人を目にすることはないだろう――翌日であったとしても、次の瞬間であったとしても。同じ人を再び目にすることはない。

 その昔、ヘラクレイトスは言っている――同じ川に二度と足を踏み入れることはできない。同じ人に再び出会うことはあり得ない。同じ人に二度出会うことは不可能だ。なぜなら、人間は川だからだ、絶えず流れている。これからどうなるのか、けっしてわからない。未来は開かれたままだ。物にとっては、未来は閉ざされている。岩は岩のまま、岩のまま。それには成長するための潜在力がない。変われない、進化できない。人間はけっして同じままではない。後戻りするかもしれない、先に進むかもしれない、地獄か天国に行くかもしれない、だが、けっして同じままではないだろう。あちらこちらと、動きつづける。

 誰かと性的関係をもつと、あなたはその誰かを物に貶めたのだ。そして、彼を貶めることで、あなたは自分をも物に貶めている。なぜなら、それは妥協し合うことだからだ。つまり、「私は、あなたが私を物に貶めるのを許す。あなたは、私があなたを物に貶めるのを許す。私はあなたが私を利用するのを許し、あなたは私があなたを利用するのを許す。私たちは利用し合う。私たちはふたりとも物になる」

 だから……ふたりの恋人をよく見てごらん。まだ彼らが身を固めていないとき、ロマンスは依然として生きている。蜜月は終わっていないし、ふたりは生命に満ち、輝いていて、いまにも爆発しそうだ――未知なるものを爆発させんばかりだ。そして次に、結婚したカップル、夫と妻をよく見てごらん。すると、ふたつの死物が見えるだろう、ふたつの墓が並び合っている――お互いが死んだままでいることを手助けし、お互いに死んだままでいることを強いている。それが結婚の絶えざる葛藤だ。誰も物には貶められたくない!

 セックスは、そのエネルギー“X”の最低の形だ。もしあなたが信心深ければ、それを「神」と呼んでもいい。もし科学的であれば、“X”と呼べばいい。このエネルギー、Xは、愛になることができる。それが愛になると、そのときには、あなたは相手の人に敬意を払うようになる。たしかに、あなたはときには相手を利用することもある、だが、あなたはそのことに感謝を感じる。あなたは物に対しては、けっして「ありがとう」とは言わない。ある女性を愛していて、彼女と愛を交わせば、あなたは「ありがとう」と言う。

 あなたは妻と愛を交わして、「ありがとう」と言ったことが一度でもあるかね? いや、それは当たり前のことだとあなたは思う。妻はあなたに、「ありがとう」と言ったことが一度でもあるかね? おそらく、何年も前、まだあなたがたが決めかねていて、試し、つき合い、口説き合っていた頃なら、思い当たることもあるだろう――おそらく。だが、いったんあなたがたが身を固めてしまってから、彼女が何かに対して、あなたに「ありがとう」と言ったことがあるだろうか? あなたは彼女のためにとても多くのことをやっている、彼女はあなたのためにとても多くのことをしてくれている、あなたがたはふたりとも互いのために生きているが、感謝の気持ちは消えてしまった。

 愛には感謝がある、深い感謝の気持ちがある。相手は物ではないことを、あなたは知っている。相手には気高さ、性格、魂、そして個性があることを、あなたは知っている。愛では、あなたは相手に完全な自由を与える。もちろん、あなたは与えて、受け取る。それはギブ・アンド・テイクの関係だ……だが、敬意を伴う。

 セックスでは、それは敬意を伴わないギブ・アンド・テイクの関係だ。慈愛では、あなたはただ与える。何か見返りを得ようという考えは、あなたのマインドのどこにもない、あなたはただ分かち合う。何も報われないということではない! それは百万倍にもなって戻ってくる。だが、それはたんにおまけとして、自然の成り行きとしてだ。それを強く求めるようなことはない。

 愛では、何かを与えても、深いところでは、戻ってきて当然だと期待しつづける。もしそれが戻ってこなければ、不満に感じる。口には出さないだろうが、自分には文句があることを、自分は騙されたと感じていることを、千とひとつのやり方でほのめかしかねない。愛は微妙な取引のようのようなものなのかもしれない。

 慈愛では、あなたはただ与えるだけだ。愛では、あなたは感謝するが、それは相手が自分に何かを与えてくれたからだ。慈愛では、あなたは感謝するが、それは相手があなたから何かを受け取ってくれたからだ。相手があなたを拒絶しなかったから、あなたは感謝する。あなたは与えるエネルギーを持って来ていた、分かち合う多くの花を持って来ていた、そして、相手はあなたを許してくれた、相手は受け容れてくれた。あなたが感謝するのは、相手が受け容れてくれたからだ。

 慈愛は愛の最高の形だ。多くのものが戻ってくる――百万倍にもなって、と言ってもかまわない――だが、それがポイントなのではない、あなたはそれを強く求めてはいない。たとえ戻ってこなくても、そのことに不満はない。もし戻ってくれば、あなたはただ驚く! もし戻ってくるのなら、信じがたい。戻ってこなくても、問題ない――あなたは何かの取引で自分のハートを誰かにあげたわけではけっしてない。あなたは持っているから、ただ降り注ぐしかない。あなたにはありすぎるから、もし降り注がなければ、重荷になる。雨水でいっぱいの雲は降り注がなければならないのとよく似ている。いつか、雲が雨を降らせていたら、静かに見守ってごらん。すると、いつも聞こえてくるだろう。雲が雨を降らせ、大地が吸い取ったとき、雲が大地に「ありがとう」と言っているのが、いつも聞こえてくるだろう。大地は雲が重荷を降ろす手助けをしたのだ。

 花は咲くと、その芳香を風と分かち合わなければならない。それは自然なことだ! それは取引ではない、商売ではない。ただ自然なことなのだ! その花は芳香に満ちている――どうするかね? 花が芳香を自分のうちにとどめておけば、花はとても、とても張りつめた感じになる、深い苦悶にさいなまれる。生における最大の苦悶は、表現できないとき、伝えることができないとき、分かち合えないときにある。もっとも貧しい人とは、分かち合うものが何もない人、あるいは、分かち合うものが何かあっても、それをどう分かち合えばいいのか、その能力を、そのすべを失ってしまった人のことだ。そうだとしたら、人は貧しい。

 性的な人は、ひじょうに貧しい。愛のある人は、比較的豊かだ。慈愛の人は、もっとも豊かだ。彼は世界の頂点にいる。彼には制限がない、限界がない。彼はただ与えて、自分の道を歩みつづける。あなたが「ありがとう」と言うのを待つことすらしない。途方もない愛をもって、彼は自分のエネルギーを分かち合う。癒す力があると私が言っているのは、このことだ。

 仏陀はよく弟子たちに言っていた、「瞑想した後は、いつも慈愛の心をもちなさい――ただちに――なぜなら、瞑想をすると愛が育ち、ハートがいっぱいになるからだ。瞑想の後はそのつど、全世界に対して慈愛を感じなさい。自分の愛を分かち合い、エネルギーを大気中に解き放ち、そのエネルギーを他の人たちに使ってもらうために」

 私もまた、それをあなたがたに言いたい。それぞれの瞑想の後、祝っているときに、慈愛をもつがいい。自分のエネルギーは、人びとを、彼らの必要に応じて助けることになるのだと感じてごらん。ただ、それを解き放つがいい! あなたは重荷が降りるだろう、とてもリラックスした感じがするだろう、とても穏やかで静かな感じがするだろう、そして、あなたが解き放ったバイブレーションが、多くを助ける。つねに瞑想を慈愛で締めくくりなさい。

 そして、慈愛は無条件だ。自分に親しくしてくれる人たちだけに、自分と関わりのある人たちだけに慈愛を抱くということはできない。慈愛はすべてを含む……本来、総括的なものだ。だから、もしあなたが隣人に慈愛を感じることができなければ、そのときは瞑想のことはすべて忘れなさい。なぜなら、それは特定の誰かとはいっさい関係がないからだ。それはあなたの内面の状態と関係がある。慈愛となるがいい! 条件を付けずに、向かう方向もなく、宛先もなく。そうなれば、あなたはこの悲惨な世界への癒す力になる。

Osho, A Sudden Clash of Thunder , #8 より抜粋


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