ネット上で素晴らしい本を見つけた。
見つけたと言ってもかなり前に読んだ記憶はある。著者に関して詳しくは知らないが良いことを言っているではないか。


正直OSHOの本は他人に勧めづらい。そもそも宗教くさいし、一冊に要点がまとまっている本はほぼないし、読む人間によってどの本が向いているかかなり差がある。が、この本はそういったことをカバーできている…気がする。


Kindle Unlimitedだとタダなので会員の方はサクッとダウンロードしておくと良いだろう。
…とここまで書いてふと思ったのだが、この本以前にも紹介したっけ? 自分の書いたことはことごとく忘れているようだ(やば)。
まあ序文とあとがきに良いこと書いてあるし別にいっか…。


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(序文より)
群衆はいつも、雑多でゴチャゴチャしている。だが、雑多でゴチャゴチャした個人というのはいない。それぞれの個人は、真正な気づきのある意識だ。彼が群衆の一部となるとき、彼は気づきを失う。そして彼は、集団的で機械的な思考に支配されてしまう。私が取り組んでいるのはシンプルなことだ。――個人を群衆から引っ張り出して、個としての本性と気高さを彼に与えること。

私は、この世界にどんな群衆も望んでいない。宗教の名のもとに集まろうが、国家の名のもとに集まろうが、民族の名のもとに集まろうが、そんなことは関係ない。こうした群衆は醜い。群衆は、世界中で最悪の犯罪を犯してきた。なぜなら、群衆には、気づきがないからだ。群衆は、集団的な無意識だ。

気づきのある意識が、人を個にする。――風の中で踊る一本の松にする。太陽の光を浴びて栄光と美のなかにある一つの山の頂にする。一匹のライオンと何キロも谷間に響き渡るその凄まじく美しい咆哮にする。

群衆はいつでも羊だ。そして、過去のすべての努力は、それぞれの個人を、車輪の歯車に変えること、死んだ群衆の死んだ部品に変えることだった。気づきがなく無意識的であるほど、そして集団に強く支配されるほど、彼は危険ではなくなっていく。実際、彼はほとんど無害になってしまう。彼は、自分の奴隷性を打ち破ることさえできない。

反対に、彼は自分の奴隷性を美化し始める。宗教、国家、民族、人種—彼はこうしたものの奴隷なのだが、これらを美化し始める。個としての彼は、どんな群衆にも属していない。すべての子供は個として生まれる。だが、個として死ぬ大人はほとんどいない。

あなたが生まれたときと同じように、無垢のまま、統合された状態のまま、個としてあるがまま、死を迎えられるように手助けをするのが、私の仕事だ。誕生と死の間で、あなたのダンスは、星に達するほどの意識的な孤高を保たなければならない。独りで、妥協なく、反逆的精神を持て。反逆的精神を持たない限り、あなたはどんな精神も持てない。他の種類の精神というのは不可能なのだ。


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訳者あとがき
本書は、二〇一五年にOSHO Media Internationalから出版された "Words from a Man of No Words"の全訳です。もともとは、一九八九年にThe Rebel Publishing Houseから出版されたものですが、翻訳にあたってこちらの版は参照していません。 

アメリカのオレゴン州において英語で行われた一九八四年の十月三十日から十二月二十九日に渡る講話からの抜粋によって、本書は構成されています。この講話は、OSHOの残した膨大な量の講話の中でも、特別に重要な意味を持っています。三十年以上に渡ってほぼ毎日長時間の講話をこなしてきたOSHOには、三年半の沈黙を守った例外的な時期があるのですが、それがちょうどこの講話の直前に当たるのです。しかも、他の講話は、東洋の偉大な思想家――ブッダ、老子、達磨大師など――を紹介する形で行なわれることが多かったのに対して、この講話では、直接的にOSHO自身の思想が語られています。

 長い沈黙を破って、自分の思想を直接的に語り出した重要な講話の中から、さらに最重要部を抜き出して本書はまとめられています。講話からの抜粋によって一冊の本を編むように指示したのは、OSHO自身だったとのことです。本書はまさにOSHOの思想の、核心中の核心です。初めてOSHOを読む人にはもちろんのこと、OSHOに長年親しんできた人にも、本書をお薦めします。長大な講話の中ではむしろ見つけ出すことのできない美しいダイヤのような結晶がここにはあります。
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