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前提として、以下のようなトラブル (a) が発生したものとする。
(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。
そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。
(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
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※このブログはフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません。
難しい話である。論理的に考えれば5人を助けた方がいいかもしれない。はたまた1人の方がイエスだったらそっちを助けた方がいいかもしれない。はたまた5人の方がアベ、スガ、キシダ、スギタ、ヤマダだったらそちらを殺しておくべきかもしれない。いや、1人の方がもし愛する人だったら…。
と、マインドは無限に悩み続けられる。そしてこの問題に答えはないし、なんなら世間の大体の悩み同様考える時間が無駄になるだけである。
「では貴様はどうするのか?」
と問われれば、私はただその場に立って自分の肉体を見守り、意識的でいるだけである。その時の私は宇宙と同調しており、自分の経験を十全に味わい尽くすので後悔もない。
その時の私の選択は野生動物と変わりがない。彼らも躊躇なく自分の家族や子供を殺すことがしばしばあるが、それと同じように私も殺すだろう。
インドの神秘家のカビールは息子のカマールを殺している。何の為に? それによって光明を、悟りを得る人間がいたからだ。しかも生優しい殺し方ではない、惨殺である。
まあ史実かどうかは知らない。興味がある人は読んでみるといいだろう。しかも読んだ印象ではカビールは温厚な単なる機織り職人である。
またある禅師は弟子の指を切り落としている。完全に意図的にだ。
OSHOの禅の講話は初心者にはあまり勧められない。瞑想に関しての著述が多い訳でもないし、信頼を促すような優しさもない。その全てが「今、ここ」に集約している。それゆえの美しさ、それゆえのキチガイがたくさん載っているので興味がある方は。
これ以外にも歴史的キチガイの例を挙げれば暇がない。
両替商をボコボコにしたイエス
猫を切り裂いた南泉
戦争で人を殺しまくったクリシュナ
別にこのブログで他人の指を切り落としたり、猫を切り裂いたりすることを勧めている訳ではない。何かもし重要な選択をする時があればただ醒めているよう勧めているだけである。
とはいえ多くの人は私のように躊躇なくアベ、スガ、キシダ、スギタ、ヤマダを殺せないだろう。そういった人は日常の買い物から、お散歩から試してみるのだ。
スーパーでカゴを取る。そこからいつものように無意識に動いたり、頭の中で「これ買わなきゃ」などと考え込んだりせずに、ただ身体が動くのを見守る。神に自動操縦させるのだ。自分の脚がゆっくり動くのを見守り、首が動くのを、眼球が動くのを見守る。そして商品に手が伸びるのを見守る…その時に頭が「いやこんなもん何に使うねんw」と言おうが無視してカゴにぶちこむ。それを繰り返す。
間違いなくあなたに必要な商品が手に入るだろう。「世間がおすすめしている商品が」ではなく、間違いなく「この宇宙にある、この肉体にとって必要な商品が」である。
お散歩の時もただ身体が動くに任せる。「いつものルート」だとか「ここに行ったら景色綺麗なんよ」とかいう論理を脇に置き、ただ見守る。
あなたにとって必要な経験がもたらされるだろう。綺麗な雲を見つけるかもしれないし、野良猫と出会ったりするかもしれない。はたまた南泉のように猫を切り裂いたりするかもしれない。
このブログもそのように書かれている。もちろんその内容は私が読んだ本、見たテレビなどの「私の肉体に溜め込まれたデータ」を反映しているが、そこに個人的作為がないのだ。
最後に有益な情報を一つ置いて今年を終わろう。
貼るカイロは腰や背中に貼るよりも脇の下に貼ると暖かい。