スマートフォンの充電の接続が悪い。以前から調子が悪く近所の怪しげなスマートフォン屋に一度世話になったのだが、その時はこちらの持っていた接続相性の悪いケーブルと店員が持っていた接続相性の良いケーブルを物々交換してもらいことなきを得ていた。
が、のらりくらりとやっていたが相当苦労しないと充電できないようになってしまった。ケーブルの物々交換の時に教えてもらったのだがどうやら端子を替えると5500円かかるらしい。とはいえもうどうしようもないので修理してもらおう、と店を訪ねる。
ワイ「前にケーブル交換してもらった人なんすが覚えてます? やっぱりダメそうっす」
店員「ん〜もう流石にって感じっすね。端子は取り寄せないとないんで3日くらいかかっちゃいます」
ワイ「まあしゃーない。それでお願いします」
救世主「あ、でもワイヤレス充電器なら端子替えなくてもすみますよ」
ワイ「!?!?!?」
ワイ「買うならやっぱり通販の方が安いですかね?」
救世主「意外とヨドバシとかでも安いっすよ。安いのだと2000円しないっす」
ということで近くのヨドバシで見てみる。なるほど安いのは2000円しないな…とは思ったがその充電器に使う端子やら対応機種やらの関係で結局Amazonで買った。
私は裸眼の視力が0.01未満でメガネをしていないとろくにスマートフォンのケーブルを刺せない。まあこのくらいは仕方ないかとは思っていたが、結果的に、暗闇で発光してくれてしかも置くだけで充電できるという視力クソ雑魚の私にはぴったりのアイテムを手に入れることができた。
また別のパターン。
以前紹介したマカの3ヶ月分が2400円する。1ヶ月分が1200円だからかなりお得…とはいえ飲んだこともない物に2400円はさすがに気が引ける。が、ふと楽天のクーポン一覧を見ると2500円以上のお買い物で500円引きクーポンがある。
とはいえサプリメントで100円だけ追加というのはさすがに?と思っていたが、「今週の100円サプリ」なる物があるらしい。これでクソいらない物だったら買う気も起きないが、「オメガ3」という中トロやらサーモンやらに入っている不飽和脂肪酸らしい。私は回転寿司にいけばほぼ中トロとサーモンしか食べないので身体が欲している可能性が高い。即買いである。
ワイヤレス充電器も3ヶ月分のマカもオメガ3も私に何をもたらすかは知らない。とはいえこういった偶然の一致が私に不幸をもたらしたことはない。
引き寄せの法則といえば引き寄せの法則かもしれない。なぜなら既に書いた通り私の肉体にはワイヤレス充電器があった方が快適に過ごせるからだ。
とはいえそもそもワイヤレス充電器のことなんて頭の中にはなく、それを四六時中イメージしたり、「ワイヤレス充電器が欲しいワイヤレス充電器が欲しい」と何度も唱えたりした訳でもない。
要点は「私」が願いを叶えるということではないのだ。やるのは常に全体であり、神であり、内なる衝動である。
「内なる衝動」だの「神の声」だのというと大げさに聞こえるが、私がやっていたのは(正確にいえばこれすら私がやっていたことではないのだが)ただこの肉体が動くのを見守っていただけである。
いかなる社会的な条件付けや通念にも従わずに、ただ肉体が動くのを見守っている時、この身体は宇宙と同調している。そしてこの宇宙はこの身体の面倒を見る気があるのだ。人間以外の野生動物たちが毎日食糧や住処を得て暮らしているのを見ればこの宇宙、全体が面倒を見る気があるのがわかるだろう。
だからもしこの肉体の必要性を満たしたいなら…社会に与えられた欲望ではなくまさにあなた自身に必要な物が欲しいのなら、自然な衝動のまま動き、それを見守ることである。
社会はありとあらゆるスマートフォンの充電方法を提示し、みんながその方法で充電して「これが幸せなんだよ?」と誇示しているかもしれない。が、もしかしたらそんなあなたに本当に必要だったのは…ワイヤレス充電かもしれないのだ。
私たちは自分が何を手に入れれば幸せになるかすら理解できないのだ。それもそのはずである。ありとあらゆるバラバラの肉体を持ち、異なる環境で育ち、異なる条件付けを受ける。にも関わらず、社会には「これを手に入れれば幸せになる」という共通認識がある。
で、この「これを手に入れれば幸せになる」を満たした人も満たしていない人もいる訳であるが、現実を見渡してみてもネットを見渡してみても、「どうにか自分を幸せそうに見せたがる」不幸な人ばかりである。
「ねえねえ見て! 私鼻の穴二つあるんだ〜♪」
と他人に自慢しようとした人はあまりいないだろう。なぜかといえば自分に既にあるものだからだ。それをわざわざアピールする必要性がない。
おしゃれに見せたがる人
お金持ちに見られたい人
過去の経歴を自慢する人
何かをわざわざアピールするということは、「今現在何かが欠けていること」をわざわざアピールしているのだ。ちなみに私はイケメンで結構モテる。
とにもかくにも、「社会が決めた何か」に向かい続ける限り私たちはこの宇宙の自然な流れから逸れており、自然でない方向…「人類の存続」ではなく「人類の滅亡」に向かい続ける。
医療、政治、教育、司法が腐っている国の代表として「日本」という国があるらしいので、気になる方はその国について調べてみると良いだろう。そこでは「滅亡」に向かっているのがはっきりと理解できるはずである。
だから特定の理想になんか耳を傾けないことだ。
まさにあなた自身の衝動が神であり仏であり、この宇宙の自然な流れであることを覚えておいていただきたい。個々人がそういった個々の衝動に従う時、まさにこの世が「当所即ち蓮華国」であり、あなた自身が「此身即ち仏なり」である。
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衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
私たちは元来仏である。仏と凡夫の違いは、水と氷のようなもので,
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
氷が溶けたものが水であるように,自我の妄執が融ければ仏である。
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
私たちは自らが仏であることを知らず,それを遠くに求めている。なんと儚いことか。
たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり
ちょうど水の中で、のどの渇きを訴えるようなものである。
長者の家の子となりて 貧里に迷うにことならず
裕福な家を迷い出て、困苦しているようなものである。
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
六悪道を輪廻する原因は,自己への深い妄執と分別心のため,己が己に迷っているからである。
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき
分別に分別をかさね、妄執に妄執をかさねて,いつ迷いの世界を離れるのか。
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
大乗の坐禅のすばらしさは、とても言葉ではあらわせない。
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
布施や持戒などの六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)
其品多き諸善行 皆このうちに帰するなり
念仏,懺悔など善行の根本は、みな坐禅(無心)に帰する。
一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ
たった一度の坐禅(無心)の体験で、過去に犯した全ての罪が消え去る。
悪趣何処に有りぬべき 浄土即ち遠からず
六悪道などどこにもない。浄土は今,目前にある。
辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時
この大乗の教えを聴いて、仏の教えに出会えたことを喜び、
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし
その教えに随って生きてゆく人は,多くの福徳を得るであろう。
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば
いわんや自ら坐禅を行い,無心を体験して自己の本性に気付けば,
自性即ち無性にて すでに戯論を離れたり
それは何の実体もない空であるから,もはや、ああこうの分別の世界,
妄執の迷いから遠く離れることができる。
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
仏と自己が本来一体であったという,大乗の門が開けた。それは分別に分かれない真っ直ぐな道である。
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
坐禅によってこの身を空にした,その「無の身」を体とすれば、その行為のすべてが真理を離れない。
無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
坐禅によってこの心を空にした「無の心」を心とすれば、その行為はすべて教えの姿,真実の姿となる。
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
世界と自己が一体になった三昧の世界のひろやかさ。
その三昧の大空には仏の智慧の光が、月のように光り輝いている。
此時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
ここに到ってなにを求めるのか,悟りは今・ここ・自分の上に現れている。
当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり
ここが極楽浄土であった。この自分が,仏であった。
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