私たちが産まれた理由は何だろうか?

生きる目的は?意味は?



といったことは何もない。人類の1番目に誕生した…アダムなのかイブなのかタカシなのか知らないが、その人に尋ねるところを想像してみたらいい話である。

きっと100番目…いや10000番目くらいまでの人間は「あ?😀」と口を開けて、その「目的」やら「意味」とやらを不可解な顔をしながら聞いているだけだろう。



その後20000番目くらいになって「あれ、もしかして生きてることに目的とか意味とかあるんじゃね?」と考え始める個人が産まれ、やがて周囲に病気のように伝染する。その病は今や人類全体にはびこり、今日のコロナウイルスのごとく元気モリモリどうぶつの森だ。



現在私たちは目的や意味といった病に侵されている訳であるが、恐らく人類の19999番目までの人間は私たちほど苦しんでいなかっただろう。動物と同じように食べ、眠り、セックスをして種を増やし、死ぬ。そこにナンセンスな苦しみといったものは存在しなかったはずである。



「私たちは目的や意味を持っているから崇高な存在なんだろう😡」と主張する「自身の崇高さに微塵の自信もない低俗な存在」は死ぬまで目的や意味を探していたらいい。

瞑想、観照、気づきといったものは目的や意味とは無関係…まさに「いまここ」に終始している。こういった「生の無意味さ」「目的や意味の無意味さ」を頭で知的に理解するだけでも、そういった理解は「いまここ」への留意を助ける。



ので、そういった論理に関して私なんかより数段書くのがうまい無明庵EOの文章を貼り付けておく。





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我々の生は重要性を持つのか?


何を論じようとするにしても、すべてはここから始まります。

そして私は安易に、人間の人生に意味や重要性があるなどと

決して言うつもりはありません。


そもそも、そんなことをどうして皆さんは疑うこともなく、

信じていたり、あるいは「信じようと」したりするのでしょうか?


私たちが生きている(と感じている)ことについて、

それが重要性を持つかどうかなど、一度たりとも、

明確な証拠によって、証明されたことはありません。



この点に関して、最も悪質かつ、稚拙かつ、有害なものは、

宗教や精神世界の情報です。


それらは人、または人類が生まれてしまった後になってつけた、

すべて後付けの「理由」に過ぎません。


そして、もしも人間あるいは、人間以外の生物を含む全てに、

大した意味も重要性もないのであれば、あなたは何も真面目くさって

今日、そこで生きている必要もありませんし、


なんなら、あなたが自殺したところで、誰もそれを責めることなど

出来ません。



なにしろ、誰一人として、生命や人間に価値や重要性があるなどと

証明できた人はいないのですから。

いかに、それを叫ぼうが、ただの「主観」です。



さて、生まれた後になって、いろいろな理由をつけては、

「死なない理由」を人間は捏造します。


しかし現実の事実だけを見れば、我々は何かの価値観によって

死なないのではなくて、「死なないように作られた空腹や痛みや恐怖」

によって死なないようにしているらしい生き物であるに過ぎず、

自主的に、死んではいけないと考えるほどの知性は、何も持っていません。



まだ言葉も分からない子供が生きようとするのは、

別に、生に意味を見出しているからではなくて、

単なる生物学的なプログラムに過ぎません。

そしてそれは、結局は死ぬまで変わりません。



全生物や、ことに、皆さんにとっては、身近な「人間の生」に

さして意味や重要性がないのであれば、

別に、食べて、性欲を満たし、生殖し、ちょっとばかり他人を愛して、

愛されて、その程度で、人生は充分ではないですか?

一体、何を大げさな価値観やら宗教など持ち込む必要があるでしょうか?



しかし、思想がないはずの共産主義や無神論者でさえも、

人間性やモラルや、あげくには、社会的にどうあるべきかということを論じます。


そもそもそんな価値は、人間だけが口にしているだけであり、

むしろ、そのような価値観を製造しないと落ち着かず、

それによって、「何かの為に踊らされる側の立場にある」と考えた方が

ずっと整合性は成立します。



生まれたあと、あなたには、さまざまな「人生のゴール」と称する

玩具あるいは麻薬が与えられます。


それはいろいろですが、世間的な俗に言う俗っぽい「成功?」から、

創造性やら、あるいは、何かの病理を心や体にもっていると、

それを克服しろと他人や社会から、言われ、挙句には、悟りだなんだと

そんなガラクタまで、鼻の先にブラさげられて、


ただの暇つぶし、または何かに困って、あなたは精神世界に首や足を突っ込みます。



しかしですよ、そもそもあなたの生などに大した重要性もないのであれば、

そんなことであがく必要は何もなく、

生が嫌になったら、いつでも自殺する権利をあなたは持ちます。


これが確かな人間の生の目的だと反証不可能なほど、疑問の余地が

一切ないほど説明したものなど、申し訳ありませんが、

私の知る宇宙の範囲の中には、たったの一つもありませんでした。



そうなれば、あなたは何も愛情など欲しがったり、与えたがる

という偽善、あるいは本能的なあがきをする必要もなく、

機能不全家族の、ボロボロのアダルトチルドレンで、けっこう、

トラウマだらけで、ヒッキーで、毎日死にたがっていたりしても、

全然全く構いません。


何しろ、最初から意味ないのですから。

何かに向かおうとか改善しようとなど、どうしてするのでしょうか?



ところが地球上の人間の、99.999%以上が、

なんと、何の証明も確証もない「目的」に向かって、

だらだらと生き続けます。


挙句には、「生き続けることに意味がある」とか、わけわからんことを

言い出す始末です。


もしも、それを本気で言っているのだったら、

手段を選ばず、生き延びて、殺人でも盗みでもなんでもやれば

いいじゃないですか?

生存こそが最優先の目的であると、本当に信念を持っているのであれば。



ところが、困ったことに、人間というのは、

どこかしらで、「自分は生の目的を知らないのではないか」

だとしたら、

「私は、間違ったことをしているのではないか」と思い込んだり、

あるいは逆に、

「自分は生の目的について知ったかぶりを出来ているから」

「正しいことをしているのではないか」などと思い込む始末です。


現実には、そのどちらも、結局は確証も保障もないのですがね。



ですから、今一度、考え直すといいです。


あなたは、自分のことでも他人のことでも、

100%の確証はないままに、

何かが正しいように思え、何かが正しくないように思えている、

そういう生を生きているに過ぎません。


しかし現実をよく見れば、実はその「正しい/正しくない」の

基準のスケールになっているものの多くが、

論理的な正しさによるものではなくて、

「不快か不快でないか」によっていることが分かります。



分かりやすくいいますと、

もしもあなたが病気をしたら、やたらに楽しくなる症状が出たら、

その日から、病気は、人類にとって、悪とか、対決するものでは

なくなってしまうでしょう。


トラウマや虐待だってそうです。

殴られると気持ち良い、軽蔑されると心地よいという神経回路が

もしも形成されたら、その日から、それらは戦うべきものでは

なくなってしまいます。


つまり、私がここで言いたいことは、

地球上にある、もっともらしい倫理や宗教などは、

実は、正しいか正しくないかではなくて、そのほとんどは、

「自分が苦痛か、苦痛ではないか」という事を基準にして、

社会的に位置づけられているということです。



ですから、人間の生に価値があると考えたり、あなたの生が

何かの重要性を持つとか考えてしまったのは、

その前に、そもそも、そういう価値観とは関係のない、

「快・不快」という単純な基準があるわけです。



本人一人が、この上もなく快であるものも世の中にありますが、

たとえば、それが「最も洗練されたもの」が悟りであり、

それが「最も劣化した汚物」が、薬物中毒です。


どちらも、もしもその夢や快から醒めることがなければ、

本人一人にとっては問題は何も生じませんが、

ただ、周囲の社会や人間との関係の中で、

それは他者に苦痛をもたらす事がある、ということで、社会悪とされます。



つまり個人のものであれ、集団のものであれ、

人間あるは生物そのものがそうなのですが、

そもそも、「苦痛をどうやって回避するか」ということに、

何万年も明け暮れているのです。


しかし、どうして、そもそも苦痛などを発生するようにしたのでしょうか?

この点に対して少しは知性があるならば、疑問を持ったほうがいいです。



他の原始的な生物から、私たちに至るまで、もっとも根源的な苦痛とは

「空腹」です。

プランクトンを食べている魚でさえも、プランクトンが多い海へと

移動しようとしてあがきます。


つまり、生物や人間が、そもそも生存する中で、

毎日のように、空腹になり、性欲を感じ、挙句には、

やれ愛に飢えているだのと、もうそれは、不満だらけで、

いつも毎日、何かに不足感を感じている状態、、、

これ自体が、実際には、「既に異常な病気」です。



これだけ「異常なこと」になっているのに、

誰しもが、そんな異常な事態の中で、

人生の価値やら、改善すべきなんたら、かんたらや、

あげくには、生の目的まで、分かったような気になっています。

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