当たり前だろ…!全てが「私の感想」だ…!
この世の全てのことは「私の感想」でできている。
目の前にトマト🍅が一個あるとしよう。
これを見て小さな子供はこう言う。
「トマトが一個ある」
ボケた老人はこう言う。
「日の丸が二個ある」
私はこう言う。
「生のトマトは嫌いだが、ケチャップやトマトソースのパスタなどは大好きだ」
世の中でこの中の何を事実とするかといえば、「トマトが一個ある」だ。なぜかといえば「ただ大多数がそうだから」という多数決の結果でしかない。
この世に普遍的な一つの事実がある訳ではなく、世の事実とされているものは「多くの人がそう思っているから」という領域以上には先に進めない。
で、私は別にバカが「それってあなたの感想ですよね?」というバカな論理を振り回すことに私は何も問題はないと思っている。それで多くの人の注目を集められるならそれで良いのだろう。
ただそれを知性を持つ可能性がある小学生が言うのは違う。彼らには未来があり、今後の日本を担う存在であるからだ。
この言葉が子供たちにとって何が悪いのかといえば、それぞれの子供が「私の感想には価値がない」と思ってしまうことだ。
「それってあなたの感想ですよね?」と言われると誰もが尻込みしてしまう。なぜかといえば私たちは「自分の意見」には価値がないと教え込まれており、「大多数の意見」「社会の意見」にのみ価値があると思わされているからだ。
この言葉はその「自分の意見の無価値感」に拍車をかけてしまう。誰もが「それお前の感想じゃね?w」とお互いの意見を否定しあいそこに残るものは何かといえば「大衆の意見」であり、じゃあその「大衆の意見」とは何かといえば「社会、政治、教育、メディアが発した意見」でしかないのだ。
今現在の日本ですら社会に洗脳された奴隷で溢れているのに、これ以上奴隷を増やしていい訳がない。もし今宇宙旅行に行った人がしばらくして帰ってきたら本当に猿の惑星になっていた、みたいな話になりかねない。
私は知性のない猿を責める気はない。ひろゆきさんには自分の発言がどう影響するかを考えるだけの知性がないからだ。
が、子供たちは違う。彼らはまだ奴隷に、ロボットになる前の段階だ。先日インスタでOSHOの言葉の一部を読んだ時に「人間が奴隷として完成するのは21歳の頃だ」なんてものがあったが、プログラミングが済むまではまだ間に合うのだ。
私たちは子供たちにとんでもないことをしている。
マスクをさせる、修学旅行に行かせない、食事中は会話させない、ワクチンを打たせる、個人の意見を言わせない
まるで奴隷じゃないか…!
そしてこの奴隷というものが歴史的にどう反逆してきたかの恐ろしさは言うまでもない。私個人の意見としてはこの子供たちの反逆は「タダでは済まない」と思っている。
最近色んな科学者の本を読んでいるが、知識にまみれた彼らがじゃあ非知性的か?といえば全くそんなことはない。
むしろ彼らはその知識が借り物であることを重々に承知しており、「これは私が調べた結果でしかないんですぅ。私の実験結果から私がこう思っただけなんですぅ」という謙虚さがある。
ではなぜこのコロナ禍でワクチンを無理やり打たせたりといった傲慢さがはびこっているかといえば、その科学を都合良く利用しようとしているバカが大量にいるからであろう。
日本の科学者自体は極めて優秀であるが、それを利用している「科学を信じているバカ」が今の状況を作り出している。科学者自身はむしろ「全然科学を信じてなどいない」のだ。
まあ当たり前のことではある。「信じる」の対極にあるのが科学の本来の姿のはずだったのだから…。
暗くなってしまったので気分転換に今晩のワールドカップ決勝トーナメント一回戦の結果を予想して終わりにしよう。
イングランド3-2セネガル
フランス2-0ポーランド
フランスの勝ちは堅い。セネガルは私が大穴と予想していたエクアドルを蹴落として勝ち上がってきたのでかなり強い。イングランドはよくやらかすので全然チャンスはあるだろう。