昨日横浜まで自転車で爆走して思ったこと。



電動自転車はバッテリーが切れるとまともに機能しない。「バッテリーが切れたら普通の自転車になる」ぐらいならまだ良いのだが、バッテリーの重さも相まってそもそもの車体が重いゆえに普通の自転車より動かすのに苦労する。



人間も同じである。

本来の自然な動き、宇宙のエネルギー、神のエネルギー、ハイアーセルフ…呼び方はなんでも良いのだが、このエネルギーなしでは人間は摩耗してしまう。

なぜかといえば単純に「自然でないから」「その肉体の遺伝子、条件付けにちなんだプログラム外の動きをしているから」という理由からだ。



この自然さを養う(?)為…というより取り戻す為に瞑想を勧めている訳だが、恐らく現代人は瞑想をやらない。

私の母もボブフィックスからフルフィルメント瞑想の伝授を受けておりマントラを持っている訳だが、それでも瞑想が毎日の習慣になったりはしていない。



私はフルフィルメント瞑想以上の手軽で簡単で間違いのない瞑想を知らない。それゆえこの瞑想が人類の為になるとばかり思っていたが、どうやら事態はそんな単純ではないらしい。



現代人には瞑想をする気力すらないのだ。これは別に個々人に意志がないとかいうナンセンスなことを言いたいのではなくて、そもそもの社会システム、この惑星自体が「瞑想をする個体を生み出す環境」にない。



OSHOは「一日一時間は瞑想するように」、さらには「一日一時間坐るだけでは意味がない。一日を通して気づきを持つべきだ」と言っていたが、現代では夢物語である。

誰もが社会システムとストレスの車輪に巻き込まれているので、そもそもそんな瞑想をするようなエネルギーが新たに注ぎ込まれることがない。



昨日横浜まで爆走した帰り道、早い段階でバッテリーが切れ全身のエネルギーを使い果たして自転車を漕いでいたのだが、当然そのような状態では瞑想やら気づきやら意識やらは保つことができない。

OSHOのダイナミック瞑想はかなり激しい運動をすることで身体のエネルギーを枯渇させ、それによって瞑想が起きやすくなるといった手筈なのだが、そもそも私はあれによって気づきが増したと感じたことがない。



まあOSHOが生きていた時代の人間にはあの瞑想が向いていたのかもしれないが、現代人にはあれをやる気力も時間もない。物好きな一部のサニヤシンが未だにピョンピョンしているくらいだ。



黙って坐ることもできないし、ピョンピョン飛び跳ねる気力もないし、増してやナンセンスなスピリチュアル話を何度聴いたところで人類が変わらなかったのは歴史が証明している。

私はさらに手軽なパワーストーンを勧めることになるだろうが、別のどこかの誰かが新たなテクニックやらアイテムやらを発案するのかもしれない。

とにかく今は瞑想やら信頼やら形而上学的なことやらよりも、「治療」「回復」が人類には必要なのだろう。



昨日書いたチベタンテクタイトであるが、半日置いただけでもかなり良い感じなのでお勧めしておく。クロコアイトは持ち帰ると既にケースが赤く汚れていたので、持ち運ぶ時は小さいパウチに入れるなりちゃんと包装した方が良い。




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