ラメッシ・バルセカールは一日の終わりに「自分のあらゆる行為に自由はあったか?」と自分に問いただすワークをさせる。
一日の終わりにやることも有効であるが、私の感覚としては朝起きてまずこのことを想起することにも価値がある。
一日の終わりにこの想起をしてもその日受けたストレスが取り除かれることはない。「ありとあらゆるストレスを受けたが、それは仕方がなかったのだ」というスタンスだ。
一方で一日の始まりにこの想起をしておくと、その日受けるストレスをその都度減少させることができる。
怒り、憎しみ、悲しみは沸き起こるが、それはその都度「あ!これ進研ゼミでやったところだ!」といったように「一日の始まりに想定済み」であるゆえ感情を受け容れるのが容易くなる。
これでは自由意志の感覚を削ぐことにならないか? と思われる方もいるかもしれないが、自由意志の感覚が削がれた人を私は見たことがない。
究極の「自由意志の無さ」を体現した覚者と多くの時間を過ごしたが、彼でさえも「いやぁこの自由意志があるって感覚はスンバラシイね」と自由の感覚は微塵も削がれていない。
私がネット上で自由意志があるかないかの議論を匿名掲示板でしている際に、とある人に「何で自由意志があるという観念を信じたいのか?」と尋ねたら、「だってこれから何でもできて、どうにでも成れるって方が良いに決まってるじゃん」という答えが返ってきた。
私は不覚にも(?)こっちの観念の方が美しいと思ってしまった。もちろん偽の感覚ではあるのだが、瞑想やワークによってこの感覚が人間からなくなるということではないので何も心配はいらない。
今日はラメッシ・バルセカールではなくその弟子のウェイン・リカーマンの「無力の道」から引用する。
この本の解説を書こうと思ったがAmazonの解説文が優秀だったのでそのまま貼り付けることにした。
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https://www.amazon.co.jp/dp/B09CD536CV/
内容紹介
私たちは無力だった! 何も為すことができない。自己を超えた力に委ねるしかない。あなたより偉大な力が「問題を解決する」。
非二元と、アルコール依存症の人のための「12のステップ」から見た本当の救いの道!人生の苦しみは、コントロールする力を持っているという錯覚の直接的な結果だということがわかり始めるでしょう。
「『アルコホーリクス・アノニマス(匿名のアルコール依存症の人たち:略称『AA』)』の12のステップを通して、個人の無力から生まれる安らぎへの最初の理解が私にもたらされました。その後、道教、禅、スーフィズム、アドヴァイタ、ユダヤ教やキリスト教の多くの神秘主義の著作にある非二元のスピリチュアルな教えに共通した原理を見出しました。言い換えると、この考えは少しも新しいものではないのですが、歴史を通じて人類にとって容易には受け入れ難いものでした。そこでこの本の中では、多くの人にとってこの個人の無力を受け入れるのが難しい理由についても探っていきます。」
「自分の中に、自分が物事を起こしているという感覚、自分が物事の作者だという感覚を認識できるかどうか、確かめて下さい。自分の中に、物事が上手くいくことへの 責任を確認できますか?物事が上手くいかなかった時にはいつも、罪悪感を持ちませんか。そうであれば、あなたは自分が物事の作者としての力を持っているという感覚と結び付いているのです。ここは決して飛ばさないで下さい。本を置いて、しばらく検討してみて下さい。」
「この本を読み進めていく力が自分には十分に与えられているのがわかると、自分が最初からずっと本当は無力だったことに気づいて驚くでしょう。また、人生の苦しみは、コントロールする力を持っているという錯覚の直接的な結果だということがわかり始めるでしょう。自分と世界についての真実に気づくと、自他が調和した状態で生きることができます。
恩寵によって、人生が実際どのようなものかというビジョンに目覚め、それに伴い必ず平安も見出します。」
(以上、本文より)
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(p86-88)
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瞑想はただこのような怒りを観察する。それによって「自分」ではなく「自分の肉体」が好き勝手に怒っているだけであり、コントロールが不可能であることを了解する。
信頼はこの怒りに対してただ「OK」という。それはそのようにしか起こらなかったし、自分の肉体はそれをコントロールする力を持ち合わせていないことを了解する。
こうして書くとただ「為すがまま」で力が失われているだけに思われるかもしれないが、「自分」でどうにかしようとする力みが消えるとそれだけ「神」が、「宇宙」が仕事をしてくれるようになるのだ。
よく「瞑想をするとシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)が起きやすくなる」と言われたりしているが、これはそうあってしかるべきなのだ。
何せこの宇宙は始まりから今日まで「意味のある偶然の一致」しか起こっておらず、そこには何某かの宇宙的な秩序があるからだ。
唯一邪魔をしているのが「個人的行為者感覚」「私がやっているという感覚」「エゴ」であり、これらの感覚が消えれば消えるほどそこには「宇宙」がある。
私も瞑想を始めた当初はこのシンクロニシティが頻発することに驚いたが、今では宇宙が、神が我が物顔で私の生活に座り込んでいる。
椅子から立ち上がるタイミング、冷蔵庫から何を取り出すか、信号待ち、出会うレジの人、見るテレビ番組、チャンネルを変えるタイミング…
ありとあらゆるところでシンクロニシティが起こっている訳だが、これもただ「意味があったねぇ」ともう中学生のように叫ぶだけではなく、この肉体にとって心地よいプラスのものであることが多い。そうでなければ私の肉体が「意味のある偶然の一致」とはみなさないであろう。
私が応援しているプロゲーマーが大きな大会で優勝したり、サッカー日本代表が初戦を勝ったのは私のシンクロニシティ力のおかげかもしれない。
「勝ち馬に乗っただけやろ」という鋭い指摘が聞こえてきたが、まさにシンクロニシティとは「この肉体を勝ち馬に乗らせる」ことに他ならないのだ。
「私」が何かを為す必要などなく「勝ち馬」に乗るだけでいい。なぜか? 勝ち馬は既に走り出しているからだ!







