ネットでたまたま「自分軸」という言葉を見た。

私が想定するような「自分軸」ではないと思うが、良い言葉だと思ったのでこれを軸に書いてみる。



通常私たちは世間に与えられた「自分」を軸にして生きる。



高校まで教育を受けた方が良い、偏差値の高い大学を出た方が良い、容姿が美しい方が良い、お金がたくさんあった方が良い、知名度があった方が良い、他人に評価された方が良い…



皆が皆「これが自分の理想だ」「これが自分の軸だ」と豪語するものの、そこには何一つ自分の物はなく、世間に与えられた借り物しか存在していない。

「本物の自分」ではない「模造品の自分」だけが地球上では蠢いている。



では「本物の自分」とは何か?

それは世間に与えられた理想を生きることを軸にしていない「自分」である。

もちろんその「自分」も世間のプログラムを受けており、自分の肉体の安全を脅かすような動きをしたりはしない。



「他人に評価された方が良い」という基準を生きることはないが、「車に轢かれる可能性が高いから赤信号は渡らない」という基準には従う。

何の為にこの肉体がそういう動きを取るかといえば、原初から唯一繰り返されてきた「生存」とか「存続」という原初のプログラムがあるからだ。これに関しては「そういう風になっているから」としか言いようがない。



とはいえ「この基準は本能的だから従う」とか「この基準は世間の理想に準ずるものだから従わない」といった論理的な考え方、生き方を示している訳ではない。

この生き方はあくまで「瞑想」「意識」を軸にした時に生じるものであり、「こうした方が良いから」という理想を元にしたものではない。



この「自分」を軸にした時に何が起きるのかといえば、宇宙と摩擦がなくなるのだ。余計な世間のプログラムが外されているので、そこにはただただ「滑らかに存続すること」という軸だけがある。



だから引き寄せの法則は得てして「瞑想すればもっと引き寄せられるよ」などと言ったりする訳だが、別に必ずしも瞑想がプラスのことを引き寄せる訳ではない。



末期癌の患者でその肉体が痛みに悶えてるとしよう。世間の教えではこれらの肉体は殺してはならず、殺せば殺人の罪に問われるのもあって彼らを痛め続ける。「生きている方が良いから」と脳死で決めつけてしまったからだ。

私の祖母は脳死ではなく舌癌で死んだが、その最期はただひたすら痛みに耐えている祖母を、周りの人間が「大丈夫、大丈夫」と慰め続ける惨いものであった。無論大丈夫な訳がない。



もし瞑想的な医者、無意識に蠢いているだけでない意識のある医者が私の祖母を診たら、間違いなく彼女を殺すだろう。

そこでは「生きていた方が良い」「死んだ方が良い」という基準からではなく、ただその医者の肉体の意識的な行動が彼女を摩擦のない状態に導く。

もしその肉体が再生可能であれば再生させる方向の治療を行うだろうが、もしその肉体が再生能力を持たず、ロボットとしての機能を十全に果たすことができなければそのロボットは速やかに壊した方が良い。耐えられないほどの苦痛にモルヒネを打ち続け、それでもまだ顔を歪めて苦しんでいるロボットを生かし続けるなんて宇宙人が人間にする拷問みたいである。



当時私は確か中学生くらいだったとはいえ、私もその拷問に加担したのだ。もしその当時に意識があれば、まず祖母に「医者に命を終わらせてくれるよう嘆願したら?」と言うだろう。が、あまり詳しくはないが今の社会システムでは患者の命を医者が終わらせることは許されていない。「宇宙の自然な摩擦のない流れ」を社会システムが阻んでいるのだ。

とはいえ私自身がいきなり祖母の命を終わらせることもしないだろう。それはそれで私の肉体に摩擦が生じて存続に関わることであるからだ。自殺を勧めるのが最善であると今は感じているが、祖母の肉体の性質上かなり何もかも我慢する傾向にあったので、周りに迷惑をかけたくないという意向もあって彼女は自殺しない肉体であると鑑みることもできる。



で、もし当時中学生のガキに意識があれば最大限何をしたであろうかといえば、最善は彼女の手を取ってただ近くに座っていたことだろう。それも「大丈夫、大丈夫」という慰みを与えるのではなく、その痛みがあることを認め、最大限痛みを緩衝できるように言葉をかけるに違いない。



といったことを「これらのナンセンスな言葉の羅列、論理的な考え抜きで」行うのが「瞑想」であり「意識」であり「宇宙」なのだ。

これが残酷な引き寄せの法則である。「何もかもプラス、世間で言われている良いもの」に向かう訳ではない。



覚者の桃水やディオゲネスを見ればわかりやすい。

彼らは普通に暮らしており周囲から尊敬されるような人間であったが、わざわざその暮らしを捨てて乞食として暮らした。

なぜか? 単純に彼らの肉体が世間のプログラムに従わずに自分本来のプログラムに従ったらそうなったのだ。彼らにはその生き方が向いていたというだけである。



もし地球上の誰もが「その人に向いた生き方」をすればどうなるかといえば、ただこの地球が、世界がスムーズに動くということだけだ。

桃水やディオゲネスのように家を持たずに生きる人もいるし、全く働かない人もいるし、スポーツ選手になる人もいるし、政治家になる人もいる。

誰かが偉いだとか、優秀だとかいったことに囚われることもないので嫉妬も羨望もなく、皆が皆「その人はその生き方が向いた肉体だったんだね」と認め合うことができるだろう。



働くことが向いていない肉体を蔑むことも、社会から排他することもなく、ただ皆で「存続する為」に食料と住処を分け合う。もちろんそこには「国」とか「国境」とかいうナンセンスなシステムがないので「食糧が有り余るゆえに食糧を捨てる国」と「毎日の食糧すらままならない国」が共存するという訳のわからないことが起きることもない。



といったことに関する言葉をTwitterの本垢で集めておいた。本垢は本来の自分であり、サブ垢は偽物の自分、世間の理想に合わせた自分と言うこともできる。サブ垢で真っ当な人間を装ってはいるものの、サブ垢では他人のツイートもほぼ見ることなしに、この私の肉体が関わりたい人とだけ接点を持たせている。

本垢ではこのように情報収集したり、動物の動画を見たり、反ワクチン反政府の人のツイートを見たり、ムホホなツイートを見たり見なかったりしているのだ。「本物の自分」で生きた方が良いなどと言いながら、私自身も「偽物の自分」を世間に見せている訳なので、是非とも反面教師にしていただきたい所存である。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 



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