私たちは産まれてから死ぬまで何一つ自分の力で為すことはできない。とはいえ「今のままで良いさぁ〜」と何となく毎日を繰り返していれば人類は破滅する。
「人類は破滅する」とか大きく書いたが、もしやするとこんなにも困窮しているのは日本だけなのかもしれないとも思うようになってきた。
諸外国ではパワーストーンに保険が効いたり、既存の医学以外の選択肢が豊富にあったり、ワクチンやマスクとはもはや無縁だったり、瞑想が流行っていたり…
まるで精神的にも経済的にも我が国が遅れを取っているようではないか。いや遅れを取っているのだろう。
正直統一教会に関して最初は「はえ〜被害者の人かわいそう」くらいにしか思っていなかったのだが、あまりにその菌が全身に回っていたことに驚いた。虫歯と同じである。
今の政権によってどれだけ諸外国から遅れを取り、喜びが損なわれてしまったかは計り知れない。
ということを書きたかった訳ではない(もう書いちゃった)。
「何かを為さなければならない」という観点も必要ではあるが、あまりに「自分の力でどうにかしなければならない」ということに取り憑かれた人にはこの観点は危険である。
自分の力で瞑想する、悟りを得る、病気を治す、大切な人が死んだことに向き合う、不遇な肉体や環境や育ちを受け容れる…
この全ては、というよりこの宇宙で起こる全ては何一つ自分の力でどうにかすることはできない。というよりも正しく言えば「何かを為す個人など始めから存在せずそれは錯覚であり、ビッグバンからの玉突き事故のみが起こっている」。
といったことを言うことに関して私よりもラメッシ・バルセカールの方が4000倍優れているので彼の著作からペタペタする。あと大乘住職からのメールで「瞑想と信頼」のバランスの取れた物があったのでシェアしておこう。
2012年のメールであるが、私の幼さのせいもありかなり強めに言われている。当時20歳のガキにこれだけ真摯に向き合いエネルギーを注いでくれたことには感謝の気持ちしか湧かない。
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瞑想を楽しまなくてはいけない・・ということはありません。
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以下のコピペは全て「著 ラメッシ・バルセカール『誰がかまうもんか?!』」より。
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バクティ(帰依)から教えを始める
ラメッシ 人々は、私が言っていることに何かユニークな点がありますか、と尋ねます。それが、あるんですよ。私が教えているユニークな点とは、バクティから始め、理解で終わるというところです。バクティとは何か? それは、「御心のままに」ということです。「自分」は言います。「神よ、あなたは存在するすべてです、御心のままに」と。
ウォリック 「御心のままに」と言うとき、あなたは実際、神の意志が常になされている、ということを言っているのだと、私は理解しています。
ラメッシ まったくそのとおりです。神の意志が過去になされ、現在もなされ、これからもなされる、ということです!
ウォリック そして、神の意志以外がなされることは不可能だということですね。
ラメッシ そうなんですが、本当はその言葉はあまり適切ではありません。肝心なのは、「『私』は、無である」ということです。神は存在するすべてである。神の意志が常に行きわたっている。それゆえ、「私は何でもすることができる、私は何かをすることができる、私は何かを達成することができる」と考えるのは、滑稽なことです。創造されたものの無力さということこそが、教えのポイントです。創造されたものは無力であると、完全に受け入れることが肝心なのです。
誰の意志が行きわたっているのか──人はそれを神と呼びますが──神という観念が必要なのは、人は自分があまりにも無力だとわかるからなのです。そこで、知的思考は全能なる対象を創造し、それから、すべては神の意志によって起こったと言うのです。つまり、「私」の意志ではない。ですから、「『私』は無であり、神の意志に従っている単なる対象物です」ということは、要するに純粋なる帰依(バクティ)でしかありえません。というわけで、私は絶対にバクティから始めると言うのです──御心のままに。
─p25
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ラメッシ 私には教えの基本があるでしょうか?
はい、あるんですよ。私の教えの基本は、「意識が存在するすべてである。つまり、『誰』もどんな行為もしていない。神の意志がなければ、何ごとも起こらない」というものです。そして、私が「神」と言うとき、この現象界の内側や外側にいる、全能なる存在のことを言っているのではありません。私が「神」と言うとき、それは、源泉、意識、つまり二番目のない一なるものを意味し、その中で、現象化が起こっています。
仏陀は次のように言っています。「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない」。これが基本です。これ以上短くシンプルな言葉でこのことを表現できた人はいないと思います。出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない。ですから、個々の行為者がいないのであれば、「誰」がそれをするのか、という質問は不適切です。けれども、知性が質問して、答えを得なければならないというなら、知性は、「誰の行為か?──神の行為です」と教えられるのです。
─p27
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もっとペタペタしようかと思ったがKindleには「コピー制限」なるものがあるらしくこれ以上コピペできない。私のような奴を許さない為だろう。
とはいえスクショして貼り付ければ良いだけなので、今後はそういった形で提供する。
一応著作権の法的な部分は守っているので問題はない。
ま、たとえグレーのことだったとしても私はやるだろう。何せ今の人類、特に若者たちは「白か黒」で物事を分け、他人に対して白を強要し、そして自分自身にも白の鎧を着させることによって重い身体を持ち運んでいる状況にある。
この存在のやり方、意識のやり方、宇宙のやり方というのは本来無碍自在であり人間のマインドがつくった法律によって縛られる物ではない。
世間から見ればこの意識に従った人、宇宙に従った人、瞑想的な人、南無阿弥陀仏と唱える人はかなりヤバイ奴に映るだろう。何せこの人たちは白も黒も意識していないからだ。
そういったグレーな生き方、ヤバイ生き方をしても大丈夫だということは今後若者には示していかなければならないだろう。
(神奈川県在住 30歳 グレーおじさん)