テレビでやっているのを見た。何回目かは忘れたが見るたびに美しさを感じる。

「君の名は。」でもそうだったが、新海誠監督はそっちの分野(?)にある程度造詣があるのだろうか。小さい頃月刊ムーを愛読していたらしいので何らかの関わりはあるのかもしれない。



恐らくかなりの人が見ているであろうということであらすじは省略する。大体私はこういう概観を捉えるのが苦手だ。

ずっと雨が降っている世界が舞台で、祈るだけで天気を晴れにすることができる少女が主人公になっている。で、そんな能力やっぱいらねえ!でまた雨が降り続ける世界に戻って終わりである(音速)。



私たちにもそれぞれ願いがある。

晴れた方がいい、お金があった方が、容姿が美しい方が、恋人がいた方が、地位があった方が、他人に認められた方が…。

が、それは後から社会に条件付けられた、教え込まれた願いであり、私たち本来の願いではない。

そして神に祈ったとて、引き寄せの法則で引き寄せようとしたとてその願いが届くことはない。

なぜか? 神がそれを望んでいないからだ。では神が何を望んでいるかといえば、この肉体精神機構にプログラムした通りに動くことを望んでいる。



もちろん全ての人間が社会の条件付けに毒されず自分自身を生きたとしてもお金持ちになる人、容姿が美しい人、地位を与えられる人は生まれる。

が、そこには何かをするという努力や摩擦がない。

他者から見れば努力をしているように見えることはあるが、本人には「自分が何かをやっている」という分離感がない。



「じゃあ自分で何もしなけりゃ願いが叶うんか?」と聞かれればまさにその通りである。逆説的ではあるが、「私」がいなければ「神」が願いを叶え、「私」が何かを望めば望むほど「神」から離れることになる。



であるからして、「私」から離れる瞑想を、「神」のお望み通りですと了解する為の信頼を推奨している。

が、現代社会の人類がこの苦しみあぐねいている有様を見て、「じゃあみんなあるがままを信頼しよ」とはなかなか言えないのである。だから私はどちらかというと瞑想よりになる。



この有様があるにも関わらず、「あるがままでいい」「起こることは起こる」「どんなメソッドもテクニックもないんだ」と言う非知性的スピリチュアリストがたくさんいた。日本もそうであるが特にヨーロッパ圏に山ほどいた。



大乘住職とそういった人たちについて話したことがあるが、恐らく宗教的な背景が強いのではないかということに落ち着いた。

また私個人が思っていることであるが、彼らは探求のすえに真理を見出したというよりは突発的に真理に出会ってしまったというケースが多い。そういった背景があるゆえに、そもそも探求者に「どうしたら良いか」という真っ当なアドバイスができないのだろうと思う。



そしてそういった人たちは真理の体験はあるものの、それは脳内に保存されているだけで今現在の意識がある訳ではなく無意識に蠢いているだけである。いわば他の70億人と同じだ。

「私はこういう体験をしたからこう思う」「こういう体験をしたからこういう話をした方がいいんじゃないかな?」というマインドの思慮、想像の域を出ることができない。

世界を良くしようとしてバランスを崩してきたその他大勢と同レベルにある。



それゆえその人たちの行為は世界にバランスをもたらすことはなく、世界的な非二元教、あるがままでいい教、どんなテクニックもメソッドもない教が蔓延して今日の世界が生み出されたという結末である。



グルジェフが悟っていたと私は思わないが、それでも彼のワークに私は賛成である。ただ地面に穴を掘らせてそれを埋めさせる、ダンスをさせる…。

そういったワークによって少なからず彼に従事した人たちの生に変化が見られたのではないだろうか。



OSHOもどちらかというと「悟り至上主義」なところはあるが、それでも個々人の生を変容させたのは間違いない。

現状のスピリチュアルはあるがままで良いという宣伝文句だけが一人歩きし、ただ話を聞くだけで、コミュニティにいるだけで満足し、生自体は不満の連続から抜け出せていないという状況にある。



なんで話を聞くだけで満足するかといえばそれが楽だからだ。「大丈夫だ」と言ってくれることで一時的に安心できるからだ。

もちろん「大丈夫だ」と安心させることも必要である。スピリチュアルの「大丈夫だ」は車の片輪であり、「何某かのワーク」がもう片方の車輪だ。



片方の車輪だけの車がどうなるかといえばその場をくるくる周っているだけだ。それは瞑想だけでも信頼だけでも同じである。

「全て大丈夫」「絶対安心」と信じ続けているスピリチュアル実践者が厄介なのは同じ場所をくるくる周っているだけなのに自分が進んでいると感じて、より「自分」が強化されることにある。

世間からこの界隈の人間が疎まれているのは何にもしてないくせに優越感だけは一丁前に持って上から「非実践者」を見下しているところに理由があるのだろう。



だったら両方の車輪、信頼も瞑想もない「非実践者」の方がマシである。車輪を持たない彼らは「自分が進んでいる」なんてエゴを持っていないからだ。いわゆる「実践者」の人たちよりよほど悟りに近いであろう。



最近はこの界隈の人より普通の人たちと接することの方が私は多いが、彼らの方が段違いに優秀で知性的だ。現状のスピリチュアル界隈は世間から見ればただの非力な劣等生だろう。

そんな片輪で走る片端を生み出さない為にも記事を書き続けたい所存である。とはいえ今の若者は知性的なのでこれから先そういった人たちが生まれることはあまりないようには思える。



おじさんおばさんがひたすら若者に迷惑をかける世界になってしまったのは悲Cこえて悲Dである。断固として主張するがちなみに私も若者だ(享年30歳)。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ