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このミチを団体旅行で行くならば

このミチを
団体旅行で行くならば
ヒカリちょぼちょぼ
拝んで終わり
kuuhaku
生と死を超えた永遠なるものを智りたい
自らの本性を智りたい
というのなら・・
サトリへのミチを自らの足で歩いて行かねばならない
このミチを行くにはひとりで旅をしなければならない
それぞれの状況によっては団体で旅をしているように見えもするが
このミチを行くにはどうしてもひとり旅だ
もちろん旅の中、あらゆる助けは必要であり、それは自然にやってくる
ワタシが心底求めていれば・・
大いなる存在の計らいは、その姿形を千変万化させながらワタシを導く
幸運と思われることや不運と思われること
好みのものごと 嫌いなものごと 色んな事が起こってゆく
偉大な師に出会い おおいなる恋に落ちて
途轍もない喜びに涙することもあるかもしれない
時には思いもよらない言葉を街行くヒトから聞き突然の目覚めを得ることも・・
だが旅をするのはこのワタシ
ひとりで旅をしている
しかし
夢から覚めきらないまま
油断してしまう・・よくあることだ
目的だった「自らの本性を思い起こす」ということを忘れてしまう
そうすると・・
ひとり旅ということも忘れ群衆の中に埋没してしまう
特に組織や集まりの中で夢を見始めると
そのまま群衆に埋没していくことも多いだろう
なんとなく周りの皆が一緒に旅をしているような錯覚
油断していると団体の中で
いわゆる宗教的に見える活動をしていると
なんとなくこのミチの旅をしているような勘違いも起こる
ぼわ〜っと もや〜っと毎日が過ぎてゆく
しかも
いわゆる「宗教的な活動」をしているので
なんとな〜く旅をしている気分になっている
もちろん旅は旅だが極めてモヤ〜っとした夢見の旅だ
声が大きくて話の巧みなリーダーが言う
「はい~何時にここに集合です」
「次はあそこへ行きま~す、雨具を忘れないでくださ~い」
「ああ、そんな事を言ってはダメです」
「いやいや、そっちに行っちゃダメですよ」
「そんなことしちゃバチあたりますよ〜」
「ワルいコトしちゃダメです、イイことをしましょ〜」
「はやく集まってくださ〜い」
「感謝が足りないですよ、もっと有り難く思わないとダメですよ」
「ボヤボヤしちゃダメですよ、ガンバリましょ〜」
ツアーコンダクターの言うがまま
これに何の疑問も持たず従っていると
なんだか旅をしているような感じがするのだろう
時には何かしらの恩恵を被ったり奇跡のようなものも体験したりする
これも始末がワルい(笑)
「おお〜やっぱりこの教えはスバラシイ」と周りの皆と喜び合う
ワルイと言うつもりはないがこれでは取り逃がす
今ここで起こっている貴重な体験にやたらと注釈をつけて
勘違いの上塗りをしてゆくのだ
いつまでたってもその宗教的な体験は「外側」で起こるような錯覚が続いてゆく
今ここで体験し感動しているのは「内側」であるのに・・
おおいなるヒカリを見ることもある・・
「おおースバラシイ!!」
しかしその直後声がかかる
「はい〜時間ですよ〜!集まってくださ〜い」・・と
どうぞ ひとりで旅をしていることをお忘れなく・・
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コロナ禍ということもあって昨今のスピリチュアル界隈では団体旅行が流行っている。さしずめ内側へのゴートゥートラベルキャンペーンといったところであろうか。
ゴートゥートラベルで無事目的地に着ければいいのだが、なかなか皆で一緒に旅行先に着くのは厳しい。何時何分に待ち合わせて、何時にここで乗り継いで、何時にここへ着く…といった類のものではないからだ。
ゴールは自己の不在の了解であり、いかなる個人的行為者の「私」もいないという理解である。その「コントロールできる私」がいないのだから、個々人の歩み、速度、何時何分にどこに着くかといったものは千差万別である。
学生の時の持久走のように「今日一緒に走ろうぜw」とはいかないのだ。一緒に走ろうぜなどとぬかした奴が大体先に行ってしまうのは周知の事実であろう。
大乘住職も言っていることではあるが、この団体旅行のまずいところは、ツアーコンダクターが「次はここです😡(憤怒)」「これが正しい理解です😊(歓喜)」とその団体全員に向けて同じメッセージを発しているところにある。
これが陸上の長距離走だったり野球だったりサッカーだったりと特定の目的がある分野なら構わないのだが、ことこの界隈においてはゴールが「無目的」にあるがゆえに混乱を招いてしまう。
何年も何十年もスピリチュアルに縋りついたものの本人の生活は変わっておらず、なんならスピリチュアルに縋る前の方がまともな人間だったなんてこともよくある話だ。
他の全ての分野では団体でも構わないのだが…と書こうとしたが、最近はスポーツの分野でも個人指導がしばしば成果を上げているように感じる。まあ個々人の肉体がそれぞれ違うのだから、その人に合った指導法、練習が必要なのは当然といえば当然である。
与太話ではあるが、私はそういったスポーツの指導者と選手の関係性が好きだ。もちろんこの世界だって、指導者が自分の為に、自分の家族の為に成果を挙げようとして選手を利用するなんてこともままある。
が、稀にではあるがそんな「自分の◯◯」抜きに、ただ選手の為だけを思って指導する人もいる。
思い返してみるとそういった指導者は陸上、水泳、シンクロ、体操など個人の指導者が多いかもしれない。
もちろん個人だけでなく団体の指導者にもそういった人たちはいる。高校野球なんかはその筆頭だろう。私がプロ野球には惹かれず高校野球に惹かれるのはそういった「無私の精神」の影響かもしれない。
ではこの界隈、スピリチュアル界隈ではどうなのかといえば、「私の愛♡」「私が悟っちゃった⭐︎」などという醜い「私」がどこまでも付きまとう。
「愛」だの「悟り」だのが悪いことだとは言わないが、それが体験として起こったとしてもあくまでそれは記憶だ。その体験をいつまでも「私が悟ったんだ」と持ち運べばただの凡夫である。
そしてこの体験は起こる人には起こるというだけの類の物だ。非知性的な肉体にももちろん起こりうる。
そういったバカが記憶を持ち運び、「こういう体験をしたんだ」「世の中の仕組みはこうなっている」「あるがままで良いんだ」とほざき回ったのがここ30年のスピリチュアル界隈である。
もし少しでも知性があるなら「悟り至上主義」を騙ろうなんて発想は起こらないであろう。「悟り」を良い物だと言うのは構わないが、そのことによってそれを求めている人、あるいは求めていない人にも「私は悟っていないんだ」などという劣等感は微塵も抱かせてはならない。
「これが良くてこれが悪い」「悟ったら良くて悟らなかったら良くない」とは何たる「非二元」「ノンデュアリティ」であろうか。
もちろん「全てはただ起こっていてあるがままで良い」と言い続けた人たちが失敗したのは言うまでもないが、「じゃあみんなでこういう教えを実践しよう!みんなで頑張ろう!」というのも見当違い甚だしい。
「あるがままでいい」と言いながら、「あるがままをみんなで認めようよ」と盲が盲の背中を押している。つまり、「全てはOK」と言いながら「あるがままを認めていないあなたはNG」だと言っているのだ。
もちろん「NG」なことなんて一つもない。あなたが今何をしていようが、それはこの肉体精神機構に定められたプログラミング通りのことが起きているだけであり、ビッグバンの延長であり、まぎれもなく神の意志だ。
ラメッシ・バルセカールの言葉を引用しよう。なんか今パッと見返しただけでも彼の言葉は非常に美しいので、これはこれでまた別の記事でたくさん引用して書くかもしれない。
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好きなことをしてもいいが、でも、あなたのやりたいことは、与えられた状況で、その瞬間にまさに神があなたにしてほしいと思っていることだということです。それゆえ、何も矛盾はありません。ですから、あなたがやりたいと思うことをしてください。神はどうやってそれを管理しているのでしょうか? プログラミングを通じてです。あなたがやりたいと思うことは、プログラミングにもとづいています──遺伝子プラス条件づけです。神はプログラミングを通じて実行します。
─著 ラメッシ・バルセカール「誰がかまうもんか!?」p105
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こうして書いてみると、近代ではやはり無明庵EOのようなやり方が一番良かったのかもしれないと思い始める。今までの歴史では禅師やらなんやらの間で「個人の伝達」は起こっていたものの、昨今ではこの歴史は失われている。どこかでは起こっているのかもしれないが、大半の禅寺では公案のミュージカルが行われている程禅のレベルは低下している。
以前無明庵EOのやり方について私はひどいことを言った記憶があるので、それについてごめんなさいする意味でも彼のページを貼り付けておこう。
以前貼り付けようか迷ったのだが、あまりにも内容がネガティブな物だったので貼らないでいた。
最近読む物がないという暇な人はこのサイトを端から端まで読むだけで相当時間を潰せるだろう。
あとYouTube。
書道と手裏剣と猫とセックスが好きなおじさんである。中でもセックスに関しての知識は群を抜いている。歴史上でもダントツではないだろうか。
もちろん私は彼の「性のレシピ」「虹のオーガズム」「性恋愛教本」は読破している。
ヤフオクなどで探せばわかるが値段がかなり高騰している。私は都内をうろうろしてたらたまたま安く売ってるところがあったのでそれを買った。
セックスの情報に関して彼の右に出る者はいないと思っているので、興味がある人は買ってみると良いだろう。
彼のホームページは一通り全部読んだので最近は目を通していなかったのだが、今適当にポチッとしたところがまさに今日の内容に沿っていたので貼り付けておわりにしよう。
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プロローグ「詩句」
絶対暗黒の闇
以下の法の言葉から、あなたの中にいかなる価値観も生まれてはならない。
当然の事として、いかなる組織的な価値観も生まれてはならない。
悟りは、個人たったひとりを、
その個人が抜けられなくなった狂気から助け出すための最後の道である。
だから、それは正しい道なのでもなく、
すごいものでもなく、役に立つのでもなく、それで世界がどうなるのでもない。
それはたったひとり、あなたが楽になればいいのだ。
まったく、それは個人、ただひとりのためのものだ。
・・・・・・・・・
悟りの体験そのものへの執着や
世間と悟りの関係云々、
悟りの未来への意義、価値についての云々、
悟りと迷いの区別云々、
こうした本質的には『再発する迷い』の部類に入るようなあらゆる同一化を
絶対の闇を観想する事によって切り落とせ。
わたしは非常にエゴイスティックに聞こえる言い方をあえてする。
『私ただ一人が、楽ならばいい』
世間も世界も配慮することなく、私ただ一人が楽であればいい。
これが悟りの本当の姿だ。
なぜならば、
ただ自分一人が楽であり続ける事だけが、本当に誰かの役に立てる。
それは全く役立とうとしないが故の助けとなる。
なぜならば、「誰かの役に立つ、助ける」などという思いそのものが、
そもそも迷いだからだ。それは全く、余計な思考なのだ。
同様に、TAOや禅やブッダが世界に役に立つなどというのも
まったくもってして、幻想だ。
この幻想に、陥った人達を見るがいい。
組織宗教ばかりか、瞑想センター、禅寺、なにもかもすべてだ。
彼らは「悟ることがいい」「助けることがいい」「役にたつことがいい」
になってしまった。「あるがままがいい」「無心がいい」と・・。
しかし、本当の悟りには
『いいもの』などというものは、全く何もありはしない。
そんなことをしたら必ず分別の思考が『悪いもの』を生み出すからだ。
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