ちゃんと今に在ることは頑張らないといけない。

わけではない。



私はもう瞑想を10年以上続けているが、10年前より今に在る頻度が高いか?より今ここにいるか?といえば全くそんなことはない。



むしろ今ある理解は「その頑張っているのは誰なのか?」である。

下記は昔大乘住職から貰ったメールであるが、少なからず参考になるだろう。探してみたら2012年のものらしく、なんだか懐かしく温かい気持ちになる。



────────────────────

「最も速く走ったマラソンランナーが、最も疲れない」
という言葉があります。これは、瞑想の道にもあてはまるのでしょうか?


いやいや、当てはまりません・・!

この世で成功する、高い地位を得る、立派な学者になる、スポーツ選手になる・・という種類のものではないからです。
言ってみれば、「全然走らなかったランナーが、最も疲れない」・・こんな感じです、わはは!


瞑想の道は努力達成という観点のものでは無いからです。
無努力の世界であり、そして達成するゴールというものも存在しないもの・・なのです。

エゴ(マインド)は努力を知っている・・しかし、瞑想の何たるか、無努力を知らない・・!
エゴ(マインド)は、達成するということを知っている・・しかし、今此処にすべてが在るという事を知らない・・!
────────────────────


とはいえ瞑想を否定するつもりはない。彼の元に何年も通うことになったわけだが、いつお寺を訪ねても「それを観ろ」「その湧き上がってきた疑問を観ろ」しか言われていない。


彼に「世にスピリチュアルメッセンジャーがたくさんいますけど、大乘さんはそういう風にはならないんすか?」と尋ねたことがある。
が、今考えればナンセンスな質問である。彼のやり方はあまりにシンプルで、真理を真摯に求めている人にしか有効ではない。
「ただ観る」ということを聴く人は世間には存在しないだろう。


が、このテクニック、「観る」「見守る」ということは有効なのだ。
有効だから度々このブログでもそのテクニックに言及する訳だが、では「それを頑張る」というと要点を逃してしまう。


私のアプローチとしては、「瞑想というものを体験として知る」ということは重要ではあるものの、「それを日常的に頑張り続ける」ということは重要ではない。


むしろ「その肉体に瞑想が起こりやすくなる土台」をつくることにエネルギーを注いでいる。
「瞑想」「信頼」「浄化」を軸にしていると先日の記事で書いたが、この「信頼」「浄化」は「瞑想」が起こりやすくなる為に必要なのだ。


なぜ「信頼」が必要か?
「私」が頑張ろうとすれば頑張ろうとするだけ瞑想を取り逃がす。
だから「全てはOK」「あらゆる起こることは決まっており、神の仕業であり、いかなる個人的な行為者もいない」と繰り返す。


なぜ「浄化」が必要か?
私の体験では、肉体の状態と瞑想の起こりやすさは相関性がある。
OSHOが「ダイナミック瞑想」「クンダリーニ瞑想」「ジベリッシュ」などのストレス発散テクニックを弟子にやらせ続けたのもそういった理由からだろう。
その中でも特に私の体験としては「クンダリーニエネルギー」が瞑想の基盤になっていると感じている。


ので、クンダリーニに関する石を全て貼り付けておく。
スマホでスクショしてフォルダ分けしているのだが、その「クンダリーニフォルダ」は全て貼ることにしよう。


ロバート・シモンズはパワーストーンによって「新しい意識」を目指しているそうだ。私がペタペタ貼り付けまくっても彼の理想を汚すことにはならないと思うので、彼も私のペタペタに怒ったりはしないであろう。


そしてその「新しい意識」の為には頭や、胸や、身体の下部だけを浄化するだけでは十分ではないと思っている。
もしクンダリーニを除外すれば、世界中の人が健康になり、健康ビジネスマン、健康アスリート、健康ホームレスで街は溢れかえるかもしれないが、そこには「意識」がない。


ただ健康であるだけでは不十分なのだ。
どれだけ健康であれば十分なのか?
猫や、木や、セミや、宇宙や、ブッダや、イエスや、一休や、親鸞たちと同じだけ健康でなければならない。
でないと単純に地球が保たないのだ。


画像は全て「著 ロバート・シモンズ ポケット版 ブック・オブ・ストーン」から。




























にほんブログ村 哲学・思想ブログへ