私は普通の人が好きで、特別な人は苦手だ。
私はサニヤシン(OSHOの弟子)ではあるが、あまりサニヤシンとは馴染めない。
「それはお前のコミュ力不足だろ」と言われても否定はしないが、普通の人とは比較的仲良くできる。
OSHOの瞑想会に参加すると、そこにはサニヤシンもノンサニヤシンもいる。
が、いつも私がコミュニケーションを取るのはノンサニヤシンだ。
これは別にノンサニヤシンを選別しているわけではなく、人生の経験を振り返ってみた時に「そういや仲良くなれたのはノンサニヤシンの人たちだったな」ということである。
OSHO本人は「何も信じるなよ」と繰り返してはいたが、それでもその弟子たちから「OSHOを信じている空気感」というのは常に感じる。
またOSHOに限らず、このスピリチュアル界隈において「愛だのワンネスだのを文章で読んでそれを信じるに至った人」の数は数え切れない。
そしてそれを信じるに至った人たちというのは自らの経験があるわけではないので、その「愛だのワンネスだの」を誇示したがる。
高卒の私が見栄を張る為に「まあ俺は東大出身だけどねw」と豪語するようなものだ(実際は偏差値50にも満たない大学を中退)。
その「ニセモノたち」には独特の気持ち悪さがあり、私はその気持ち悪さがどうしようもなく苦手なのだ。
先ほど挙げたような世間での「学歴詐称」とか、あるいは「恋愛経験詐称」だとかなんてのはまだかわいいように感じる。
この気持ち悪さの原因は何だろう、と今考えていた。
恐らく、いわゆる「学歴」とか「恋愛」とかいう物を詐称するのは、「それがないから、それを経験していないから、その反動で自分を大きく見せる為にそれがあるように振る舞いたいから」ということに起因している。
が、このスピリチュアル界隈では、「具体的に何が無いとか、何を経験していないということではないが、世間での一般的な喜びを経験できなかったが為に、誰にでも手に入る『愛やワンネスという飾り』を得意げに頭に乗せている連中」がたくさんいるのだ。
この例えが正しいかは知らないが、バイキングで最初にたくさん取ってくる人間に似ている気がする。
これを食べたいとか、これが足りないといった思惟をせず、「まあたくさんあった方がいいっしょw」と脳死でプレートの上にナポリタンや揚げ物を無造作に乗せて、挙げ句の果てに「やっぱお腹いっぱいだからいらんわw」と口にも含まず消化もせずに食事を残す連中のようである。
ナポリタンや揚げ物に罪はないが、このブログでは、食べたい物を食べることができる知性的な人、普通の人に向けてバイキングの一食物を提供している。
【瞑想】
OSHOの一部の本(「ダイヤモンド・スートラ」や「新瞑想法入門」などの瞑想の記述に長けた物)
フルフィルメント瞑想
【信頼】
ラメッシ・バルセカールの国内で読める本の全て
【浄化】
フルグライト等のパワーストーン、及び浄化の反応に肉体が対応しやすくなるアスタキサンチン
ボブ・フィックスのヒーリング音楽
この「瞑想、信頼、浄化」を軸にした食べ物が置いてあるだけであり、何かを信じる必要も、何かを無理やり食べる必要もない。
私は特に他人に何かを勧めるつもりはない。
パワーストーンの記事を書くにあたって、私は「第一、第四、第七チャクラ」についてのみ書くつもりであった。
のだが、ふとした理由で第五チャクラについて身体が書くことになり、その後第一、第二、第三をまとめて書くことになった。
そしてこの風邪のひきやすい季節に次亜塩素酸水の記事をこの身体が書いたのを観ると、恐らく全体の必要性から書かれているのだろうなとは思っている。
ので、どこかの誰か、知性的な誰かにこういった記事が役立ってくれれば幸いである。
また、同時代にそういった人が現れなくても、「物書きは未来の最高の知性の為に書くべきではありませんか」という池田晶子の言葉の通り、常に「最低の人たち」の為ではなく「最高の人たち」の為に書きたい。
OSHOもよく「集団は最低の人たち、最も遅れた人たちに合わせて進む」と言っていたが、私は、現在の宗教、政治、科学、教育、メディアなどを信奉している集団に対してではなく、個人で進み、何も信じず、生を楽しむだけの知性がある人に向けて書いているのである。