OSHOはよく講話の中で「100万人に1人が探求者になる」という比喩を使う。

そしてその探求者がもし真摯に神を、真理を、自分自身を求めるなら、この宇宙は必ず手を貸す。



もしこのブログを見て自分に必要な物だと判断すれば、全ての記事を舐め回すように読むだろう。

そして私はすでにおおよそそういった少数の探求者に向けて書くべきことは書いたので、新しく、こまめにそういったことを書く必要はないのではないかと感じている。



というか、これは私の必要性から書かれているのではない。

この宇宙が書かせるのであって、それが「何の為か」といえば、恐らく「バランスを取る為」「均衡を保つ為」だろう。



この宇宙にヒトという種が必要なのかどうかは知らないが、現在のヒトは存続するのも危うい状況にあると感じているので、少なくとも今はそのヒトの存続の為に書く必要がある。

ので、存続に役立ちそうなサイトを貼り付けておく。





どこの誰だかは知らない。2ヶ月前につくられたチャンネルらしい。



このブログでもたまに紹介しているフランク・ローレンツェンのヒーリングミュージックが羅列してある。

間違いなく著作権に反してそうだが、果たしてこういった権利だなんだのを守った先には何があるのか?というのは気になるところである。



特にこういったヒトを癒す分野の権利というのを守っておいて、では、若者が病んで自殺してその命を守れなかったのだとしたら、その守った権利とやらは一体なんだったのだ?と思う。



ゴッホの絵にトマトスープを投げつけて「アートと命どちらか大事?」と訴えた環境活動家がいた。

まあ大体こういう環境活動家とかいう訳のわからない枠組みの人たちはイカれているし、バランスが取れていないので私は関わりたくない。



猫の保護活動をしている人なんかもそうだ。

私は猫大好き人間ではあるが、死ぬべき猫は死ぬと思っている。

目の前で野良猫が死にそうになっているのを見ても、身体が動かなければ放っておくし、身体が動けば助けるだろう。

その「動くかどうか」は上述の通り、「この宇宙の均衡を保つ為」の「バランスの取り方」による。

その時その時の状況で、神が、宇宙が、意識がどのようにタクトを振るかは私(思考、マインド、自我)にはわからないのである。

もし地球に5兆匹の猫がいた場合は、「宇宙の均衡を保つ為」に私は猫を殺さなければならないかもしれない。



ということを言って環境活動家を批判したいわけではない。

こういった事件が起こった際にまず何を考えるべきかと言えば、「何がその人をそうさせたのか?」だ。



Twitterやらなんやらネット上のコメントを見ると、「特定の人」が「独立した個人の意志で何かやらかした」という観点から、極めて非知性的な、ほぼゴリラのようなコメントばかりである。

ゴリラでももう少しまともなコメントをするだろう。「ウホ」と一言書き残してある方がまだ見ていて心地よい。



「独立した個人の意志」なんてものはある訳がないのだ。

「美術作品につけられた値段」「美術作品を守るための費用」「その費用で助けられたはずの死んだ人間の数」

そういった要因、環境が彼らを活動させているのだ。まさに環境活動家である。



OSHOもよく講話の中で、「原子力潜水艦一隻は〜万ドルで、このお金で〜人を救える」というようなことを話していた。もう30年以上前のことである。

あれから人類の人口は爆発的に増えたものの、では何が増えたかといえば「クソ惨めで生きていても全然楽しくない」という人が何十億人と追加されただけなのだ。

30年前のことは知らないが、これだけ今の人類がストレスにまみれ、比較し、出し抜こうとしているのを見ると、まだその当時の人たちの方が喜びに溢れていたのではないかと思う。



「人類が滅ぶとするならそれは集団自殺によるものだろう」

これもOSHOが講話の中で話していたことだが、現在の人類はまさにそういった状況にある。

「集団自殺」と聞くと、「核が〜戦争が〜」とどこか遠くで起きることのように思えるが、現に日本では「たくさんの個人」が集団自殺しているのだ。

今日もたくさん死んだのだろう。



「死なない方がいい」とは思わない。

私自身がそういった状況にいたので、その苦しみを携えたまま生きながらえた方がいい、なんて言葉はナンセンスの極みである。

とはいえ、「じゃあ死んだ方がいい」よりも「苦しみを取り除いて生きながらえる」方がこの宇宙の為になると私は思っているし、なによりそっちの方が美しい。



福山雅治主演のガリレオシリーズ「容疑者Xの献身」の中で、石神(堤真一)がベンチに座って数学の「四色問題の証明」に取り組んでいる時に湯川(福山雅治)に声をかけられる。

「その問題は既に証明されたのではなかったか?」



この「四色問題の証明」は既にハーケンとアッペルという数学者がコンピューターで、やや強引にではあるが解いている。

が、それを踏まえて石神はこう言う。

「あの答えは美しくない」



私はこの映画が好きであるが、中でもこのセリフが好きである。

美しいだ、美しくないだのは結局は個人の、マインドの分割であり判断にすぎない。

が、それでも私はこの世界が「美しく」あって欲しいと思っている。



環境活動家が「art or life?」と訴えたが、どちらもこの世界には欠かせない。

アートもライフも美しいのだ。




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