野良猫、および警戒心の強い猫を撫でる時は目を閉じると良い。



というのはネット上にも書いてありそうだが、私も例に漏れずそういったことを参照して試してみたのである。



実験対象となったのはこの子



(睨みつけている。「左前脚でワンパンいったるぞ」という気概が見える)



最近自転車で通りかかるとよくいる子で、知らないおじさんがよくエサをあげていた。

私が最初に近寄った時は即座に逃げられたのだが、そのおじさんの優しさに触れたおかげもあってか今は普通に触れるようになった。



のだが、撫でても全然こちらを向いてくれない。

撫でている時に猫が気持ちよさそうな顔をしているのを見るのが趣味の私は不満である。

顎の下を撫でるとどうにかこちらに視線を向けてくれたので、「今だ!」と言わんばかりに瞼を閉じる。

閉じっぱなしでは見えないので、こまめに開いてはまたしばらく閉じる、というのを繰り返す。



と、猫は瞼を閉じて気持ちよさそうな顔をしてくれた。



恐らくこれはエネルギー的にも、眼球から外に向けてエネルギーが放射されているわけで、そのエネルギーを一時的に遮断するのは友好を深める上で有効である(うまい)。



対人の場合でも同じである。

相手に向けてエネルギーを放射する(威嚇する、自分を大きく見せる、自慢する)よりも、何のエネルギーも放射しないか、あるいは自分を卑下したり小さく見せることで、凸凹の凹にするようにして相手にエネルギーを放射させやすくする、といったやり方の方が円滑に進む。



私は内面が腐っている割にはなぜか尊敬されてしまいがちなので、普段生きる際は小さく、小さく生きている。

その方がスムーズだからだ。



大乘住職を導いたアサンガというインドの大蔵省で働いていた人の口癖は、「下手すると尊敬されちゃうぞ」であった。



「尊敬でもされてみろ。尊敬された途端彼らのイメージに合わせて生きていかなきゃならなくなる。

そんなことでは道端でアイスクリームも食えなくなっちゃうぞ!」

というインド人にしかわからなそうなジャイナ教ジョークもよく言っていたらしい。

アサンガのことは大乘住職のホームページに以前までは掲載されていたのだが、今はどうやら存在しない。

移転するのが面倒くさかったのか…?



「導いた」なんだのと言っているが、アサンガも、大乘住職も、私も、三人ともOSHOの弟子である。

アサンガはOSHOの初期の弟子にあたる。



話はそれたが、とにもかくにも、尊敬されずに、凸凹の凹、老子の言う「水が流れる最下部」、OSHOの言う「人類の最後尾」で生きるのが一番楽だ。

そうすれば猫たちとも人間たちともうまくやれるだろう。




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