木を植えるのは良いことだとよく言われる。
本当かどうかは知らないが、地球は温暖化しているし、植物が減っているし、酸素はたくさん排出した方が良い。らしい。
論理的に、科学的に、短絡的に考えるとそれは「良い」のかもしれないが、その影響は計り知れない。
生態系、気候、人間の心情…
ありとあらゆることを考えると、果たしてそれは本当に「良い」ことなのかどうかは誰にも分かり得ない。
目の前で一人の男の子が両親にボコボコに殴られている。今にも死にそうだ。
この時このガキを身を挺して守ることが正解だろうか?
それとも警察に通報することが正解か?
善良な人がこのガキを身を挺して守ったとしよう。
が、そのガキが40年後にドイツで100万人以上のユダヤ人を殺すことになったヒトラーくんだったらどうなるだろう?
このガキはその時点で殺しておくべきではなかっただろうか?
マザーテレサは世間では称賛されている。
たくさんの孤児院を建てたそうだが、もし「そんなに孤児院があるならいくら子供を適当に産んでもいいか」という思想の人間がたくさん誕生したらどうなるだろうか?
結果的に大量の孤児が生産されるだけにはならないだろうか?
マザーテレサに関しては、OSHOが生前「マザーテレサは今すぐ入水自殺すべきだ」と言うくらいであったから、恐らく相当のことをしていたのだろう。
調べてみると色々出てくるが、話がそれるのでこの話はここまでにしておこう。
私たちにとっての善は、おおよそ「人間という種の存続」が元になっている。
が、そもそもこの宇宙に人間は必要なのだろうか?
人間がいなかった時は自然は万事うまくいっていた。
食物連鎖は自然に起き、死ぬべき動物が死に、植物は完璧なバランスで配置されていた。
が、人間が誕生した後はこのザマである。しかもその人間たちは全て「良かれ」と思ってやってきたのだ。
そして現在の私たちも環境のため、世のために「良かれ」と思って色々とやっている。
これは大きな区分でだけではなく、私たち個人の日常生活の中でも、毎日「良かれ」と思って、より生活を向上させ、より幸福になるために色々とやっている。
が、果たして私たちはその「良かれ」で幸福になっただろうか?
自分の10年前と比較して、私たちの行動はより大きな幸福をもたらしただろうか?
もし何の幸福も、喜びももたらしていなかったとするのならば、この行動様式、今までの「良かれ」に従って生きるやり方を変えなければならないのかもしれない。
「どう変えるのか」と問われれば、このブログにある通りの「瞑想」である。
世間の考えを取り入れて、自分で考えて、自分の意志で、自分で行動する
のではなく、
どんな考えにもとらわれず、思考を見守り、肉体が動くのに任せ、それを見守る
のだ。
私たちの世界の今の有様は論理の成れの果てだ。
もし世界が、個人が変わるとするならば、非論理によるものしかない。
そしてこの宇宙はずっと非論理だった。
それで何の問題もなく存続していたのだ。
もし何の余計なこともせず、余計な論理、「良かれ」「こうした方が良いんじゃないか、ああした方が良いんじゃないか」を持ち込まなければ、人間という種も長持ちするのではないかと思っている。