私には誰が座っていようがどうでもいい。
が、私の近所にも米軍基地があるので、近所に基地があることの弊害はよくわかる。
まあ細かい弊害に関しては省くとして、今回の騒動の始まりはひろゆきさんが「いやずっと座ってないじゃんw」と指摘したことにある。
が、「座り込み」の要点はそこにはない。
あくまで「私たちはそれに反対です、という意思を示す」のが要点であり、10分座ったとか、24時間座った、ということが要点ではない。
そんなとこにただ座るだけだったり、あるいはデモのような反対運動をすることはナンセンスだと思う方もいるかもしれない。
サニヤシンにもそういった活動に従事する人は結構多く(反原発とか)、私も「ナンセンスだなぁ」と思ったりもする。
が、現状大衆側にできることがそれくらいしかないのだ。
例えばTwitterで有名な学者や評論家がたくさんの支持を得られることを発言して、5万なり10万なりリツイートされたとしよう。
私は反逆者であり今の政府が嫌いなのもあり、反国葬とか反ワクチンに関して呟いている人をフォローしているのだが、例えその呟きがたくさんリツイートされたりいいねされたりしたところで国葬は執り行われたし、ワクチンの接種も止まっていない。
今でこそワクチンは接種数もかなり減ってきたが、これがもし何の反対意見を示す少数もおらず、みんなが首を縦に振っているだけだったら、5回目、6回目、7回目と接種数もかさんでいたに違いない。
ということは、この「反対運動」にも意味はあったのだ。
論理的に見れば「ずっと座っていない」というのは事実だ。
が、それを指摘することには何の意味もない。
これは「地球は実は丸くはないのではないか」という指摘と同じくらいナンセンスなことだ。
「地球を外側から見た人はほんの少数しかいない」
「写真はいくらでも捏造できる」
「遠くを見渡してみても地面はカーブしていない」
これらは事実だ。
が、要点は「それを指摘したらどうなるのか?」だ。
もし地球が丸くないということを証明し、それが利便性を生んだり、喜びを生んだりするのならそれには価値がある。
これは精神世界界隈でひたすら形状学的な言葉を並べている人、難しい言葉をただ羅列しているだけの人にも言えることだが、もしそれが「事実」だったとしても、それが何の喜びも生み出す起因にならないのなら何の価値もないのだ。
こういった精神世界界隈の人にしろ、ひろゆきさんにしろ、正直周りに迷惑をかけることはさほど大したことではない。
むしろ、そういったナンセンスな事実の指摘を生涯にわたって繰り返すことで、その人本人の人生の喜びのための時間が損なわれてしまうということの方が大きい。
もしこういった論争そのものを楽しんでいるのなら何の問題もないが、ひろゆきさんが事実の証明のために奮闘し、怒りに震えているのは見ていてもわかるだろう。
彼はお笑い番組で議論をしている時はその時用意された立場で白熱した議論を繰り広げ、楽しむこともできるのだが、それ以外の局面ではとにかく議論で負けたくないという思いが見える。
もしそういった議論を死ぬまで続けて、例え勝ち続けたとして、「さてそれでどうなのか?」「それで満足するのか?」ということが重要なのだ。
ま、とはいえ少なからずひろゆきさんは自分が何を言っているかはわかっているし、事実に即したことを言っているわけだから、「自分で何を言っているかもわからず、事実かどうかもわからないことを言っている」精神世界界隈の人よりはまだマシなのかもしれない。
OSHOも議論をよくしていたが、彼はただそれが好きで楽しんでいたにすぎない。
反政府、反国家として議論を続けたせいで結果的に政府に殺されてしまったが、彼自身は別に「大衆のため」だとか「この世を良くするため」という思いはなかったように見える。
ただ彼は何の目的もなく、ただ「そうしたかったから」そうしていたのだ。
彼は21歳の大学生の時に自己の不在を悟り、勝つ自分も負ける相手もいないことを知った。
それでも議論を続け、ただ遊んで過ごし、結果的に殺されることになった生涯が一冊の本になっている。
最近でこそ日本人にもOSHOが受け入れられるようになったのを感じているが、この本はあまり知られていないように感じる。
昔刊行された「反逆のスピリット」を再編集して色々付け加えたものだが、私自身も「彼の反逆精神」に「色々付け加えた」ものなのかもしれない。
