私たちはエネルギーの生まれ替わりだ。
最近インスタでよく猫の動画を見る。
障子を破ったり、置いてあるものを落としたり、どうしようもない生き物である。
が、人はその振る舞いを愛おしく思い、「まあ猫ならしょうがないか」と思う。
人間も猫と変わりはない。
その人間はその人間の遺伝子、条件付け、スペック以上の振る舞いを見せることはできない。
「じゃあどんな悪行をしていても放っておいたらいいのか」といえばそういうわけではない。
それに関しては猫でも同じである。
障子のある部屋には猫を入れないとか、猫が激しく動き回っているのなら過剰なエネルギーが溜まっている可能性が高いから一緒に遊んであげるとか、やり方は色々ある。
が、起こってしまったことはしようがない。
まさに神がプログラミングをして、神がそのように行為したのだから、猫だろうが人間だろうが気にすることはない。
「南無阿弥陀仏」はこの「神がそうするのなら仕方がない」だ。
どちらかというと「仕方がない」の否定的な感じよりは、「神様のおかげどす」の肯定的な感じはある。
「瞑想」はこの「神が好き勝手に行為したり動いたりしている様」を、ただ「観る」「観察する」たいうことだ。
これによって、これらの肉体の行為や、周りの出来事が特定の行為者、「誰か」によって為されているのではなく、ただ「起きている」という理解が湧き起こる。
信頼から始めてもいいし、瞑想から始めてもいい。
OSHOは、「その翼は両方ないと飛ぶことができない」と表現した。
時節的にセミの鳴き声もだいぶ鳴りを潜め、飛んでいる姿もほぼ見かけることは無くなってきた。
セミファイナル、といったところではないだろうか。