車に轢かれた。

といっても、私は自転車で、横断歩道が青の状態で渡った際に、横断歩道を通り過ぎた車がバックしてきた形で当たっただけなのでダメージはさほどない。



運転手がどういう反応をするか知りたかったのでその場でしばらく見ていたところ、10秒ほどして運転手が降りてきて「大丈夫?」と声をかけてきた。

さまざまな葛藤があった上で、出てきた言葉が「大丈夫?」だったのだろう。



私なら(運転免許持ってないけど)すぐに降りて「すみません。大丈夫ですか?」とできるだけ腰を折って、最底辺から相手に接近する。

決して微塵も自分を大きく見せようとしたりはしない。

なぜか?

単にそうするメリットがないからだ。



「自分を大きく見せたい」ということは、今現在「小さい」ということだ。

ゴールデンレトリーバーに威嚇するチワワや、ちょっかいを出してくるガキに威嚇するカマキリみたいなものである。



彼ら動物、昆虫たちは威嚇することで自分を保護しようとし、テリトリーを守ろうとする。

彼らの階層ではそれらは有効かもしれないが、私たち人間のやり取りで「自分を大きく見せること」が役に立っているのを見たことがない。



中学生くらいまでの子なら、髪を金髪にしたり、ジャラジャラアクセサリーをつけたり、他人をいじめたり、肩で風を切って歩いたりすることがかっこいいと思うのは理解できる。

が、そういったことを経験して、もしそれらのことにメリットを感じられないのならやり方を変えなければならない。



「そっちの方が尊敬される」「異性にチヤホヤされる」と思うのかもしれない。

が、私の経験ではまったくその逆である。

「自分が全く他人と差異がないという理解」「普通であること」の方が尊敬もされるし異性にもモテる。



といった表面的な処世術が荘子の「虚空の舟」には多く載っている。

「虚空の舟」の元の意味はといえば、

「湖を手漕ぎボートで漕いでいる時に後ろから別のボートにぶつかられた。ブチギレて振り返ってみると、そのボートには誰も乗っておらず、怒っているのがバカバカしくなった」

という意味だ。



OSHOが荘子について語った「虚空の舟」なのだが、もう絶版になっておりAmazonにもそこまで在庫がない。

ので、そういう際は下記のようなサイトを使うと良い。







また、OSHOの本で「OSHO」と調べて出ない時は、OSHOの旧名である「バグワン・シュリ・ラジニーシ」「ラジニーシ」で検索すると出たりする。

本によって記載されている名前が違っていたりするのだ。



とかく現代では、街中を歩いていても、ネット上をサーフィンしていても自分を大きく見せたがる人が多い。



先日、5chのまとめサイトで「高級車はペタペタステッカーなんぞつけない」という秀逸な喩えを見た。

私たちは他人から尊敬を受けられないゆえ、高級だと思ってもらえないゆえに様々なステッカーをつけたり、蛇行運転したり、ドリフトしてみせたりする。

が、多くの女性は普通の車で、安全運転してくれる人の方が好きなのかもしれないのだ。

尊敬されるためにも、モテるためにも、私たちはヤンキーみたいなやり方を改める時期にあるのかもしれない。




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