なぜ私たちが神を、大いなる自己を、意識を、本来の自分を信頼できないのか。
そしてなぜ親鸞の時代は念仏門が民衆に受け入れられ、多くの人が信頼の道を歩めたのか。
ということを考えると、私たちがあらゆることを信じ続けているゆえに信頼が難しいのではないかと思った。
昔の人は今の人ほど科学、政府、宗教、教育を信じていなかった。
科学という情報が広く行き渡るネットワークもないし、
一揆や倒幕が起こるくらい奴隷精神が染み渡っていなかったし、
日本特有ではあるが、わけのわからない人格化された神を信じることもなかったし、
何もかも「100%正しい」として頭に詰め込まれる教育もされていなかった。
それゆえ彼らはただ日常的に「南無阿弥陀仏」と唱えることに何の抵抗もなかった。
現代の私たちが彼らと同じように、「さあ今から南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀さまを信じて生きていきましょう」と言ってもかなり難しいのではないか。
わけのわからないものを信じ続けているがゆえに、もう「何が仏で何がそうでないか」わからないのだ。
なので、私たちは松葉杖として、とりあえずのテクニックとして「何かを為すこと」が必要であると思っている。
立ち読みしていてこんな本を見つけた。
別にこの本が特別いいと思うわけではないが、もしかしたら助けになるかもしれない。
こういう有名な仏教僧にありがちなのが、「感謝したり微笑んだりすることを推奨する」ということなのだが、この本も例外ではない。
別に感謝する必要も微笑んだりする必要もない。
とかく現代はニヤニヤしたりしているだけで通報されかねないので注意が必要であろう。
瞑想とはただ現在をあるがままに認識することだ。
過去も未来も考えないし感謝も憎悪もしない。もちろんニヤニヤもだ。
考えが湧くことを拒絶するわけではないが、考えが湧いたのならその考えを良い、悪いと言わずにただ観る。
感謝も憎悪も抱かないということではない。
「この肉体に感謝や憎悪が湧き起こったのを観る」ということであって、「意図して私が感謝や憎悪をする」ということではない。
瞑想とは、「私が何かをする」という能動性ではなく、「起こったことを観る」という受動性に要点がある。
考えがあることも、ないことも同じくらい良い。
感謝も、憎悪も同じくらい良い。
立ち読みしていて思うのだが、本屋のメリットなんてもう立ち読み以外にあまりないような気もする。
立ち読みのメリットは、「最初から最後まである程度ざっくり目を通すことができる」ということだ。
Amazonでも冒頭を試し読みできたりするが、その全てを試し読みすることはできない。全てを試し読みできたらそれはもう試しではない。
まあそれでも私は本屋が好きなので本屋には頑張ってほしいが、なかなか厳しそうではある。
もしAmazonで「試し読み400字まで可」みたいなシステムができて、自分の好きそうなところを目次から探してそこだけ読めるようになったらかなり厳しそうである。
ちなみに私は紙書籍を数十万円分は買ったであろうが、電子書籍派である。
どんな体勢でも、どこでも、片手で読めるというのは何よりの恩恵だ。これにまさるメリットなんてない。
なんか本屋の敵みたいなことを書いているのに気づいたので、ここらで書くのをやめることにしよう。