◯◯で学ぶ◯◯というのはよくある。
が、特に例は出てこない。
最近う◯こをしながらトイレで片手で読んでいるのがKindle版の「親鸞」である。
大乘住職にこの「著吉川英治 親鸞」を勧められたので読んでいるのだが、↑に貼り付けているのが一番安い。
何が一番いいって、そのコスパの良さである。
100円で私はう◯こする時に退屈しなくなった。暇な時にさっと開いて1ページだけ読み進める、という使い方をすればかなり長く読める。
もちろんう◯こをしていない時に読んでもいい。
もちろん私は今う◯こをしながらこれを書いている。
「親鸞」に関してまだ六割ほどしか読んでいないが、面白いので勧めておく。
皆さんご存知親鸞の、彼が産まれる前から物語は描かれており、その幼少から彼がどんな人生を歩んできたか細かく描かれている。
彼は念仏門、浄土系の僧として有名だが、彼も若き頃はひたすら瞑想に打ちこんでいた。
が、にっちもさっちもいかず、それまでに得ていた地位や名誉を捨てて念仏門の法然の元に弟子入りする。
ここから先も書こうと思ったがネタバレになりそうだからやめた。
とにもかくにも、親鸞の信頼の歩み、また民衆への念仏門の浸透を学ぶのにいい本である。
この本の出版が時代的に少し昔なので日本語の表現がわかりづらいのが難点ではあるが、1時間ほど読めば慣れる。
ちなみに私は一度そのわかりづらさで挫折したが、しばらくしてから読むとスラスラ読めた。
ふと今この「信頼」に関して思ったのだが、我々は自分の人生のこれまでを、「神の、仏の、阿弥陀さまの名において」肯定したらよいのかもしれないと思った。
もちろん未来においても肯定して構わないのだが、「神の名において」とか言って惨殺する民族が存在する以上、これが限界なのではないか。
彼らも「神の名において」とは言っているが、念仏門のように日常的に神を想起しているとは思えない。
日常的に神を想起すること、自分のやっている一挙手一投足が神のものであることを思い起こすことは、「自分」「エゴ」「私」を軽減させる。
その「私」がいなくなっている状態であれだけのことができるんか?というのが私の疑問である。
正直イ◯◯ム関係について私は知識がないのでなんとも言えない。マ◯◯ッドが何を言っていたのかも知らない。
大体私がヴォル◯モートのようにこんな伏字にしなきゃならない時点でもうおかしい。
彼らの神を侮辱してタダじゃ済まなかった人たちのことを皆さんも聞いたことはあるだろう。
テクニックとしては、今日一日自分がやったことを「神が、仏が、阿弥陀さまがやった」と責任転嫁するだけでいい。
なんなら念仏門、南無阿弥陀仏のように、
コンビニでアメリカンドッグを買ったら、
「神がコンビニでアメリカンドッグを買った」
と想起し、
街中で「なんやあいつ殺すぞ」という考えが湧いたら、
「神が『なんやあいつ殺すぞ』と考えた」
と想起し、
知らない人に道を教えてあげたら、
「神が他人に道を教えてあげた」
と想起する。
といったように、日常の行動のあらゆる面で神を思い起こすのが一番効果的であろう。
「効果的」とは何をもって効果的かといえば、「私」という偽の実態が消え、「個人的行為者感覚」という偽の行為者が消え、「神」「存在そのもの」が行為しているという力強さが湧いてくる。
突然ではあるが、今お知らせメールが来たので貼り付けておく。CBDが安くなっているらしい。今日までである。
私は買ったこともなければ調べたこともないのでそこまで効果は知らないが、恐らく効果がありそうなものである。
私はただこういう情報を羅列するおじ…おにいさんであり、これらの情報をどうするかは読んでいる人間の知性に委ねている。
誰の内側にも神は、仏はおり、私はその仏性を信頼している。
私は非知性的な人間が嫌いであり、おそらくこの肉体はそういった人たちを癒すようなものは書けないのだと最近思う。
そういった人すらどうにかできる、大衆向けのスピリチュアルメッセンジャーは世にたくさんいるので、私のことが理解できない人はそちらに行かれたらよいだろう。
大乘住職が私に何をしてくれたかといえば、私の仏性をもまた信頼してくれたのである。
彼はいつも別れ際に相手に対して合掌していた。
それと同じように、私の文章を読める知性がある人であれば、私はその人の仏性を信頼する。
