真理探求の話。



坐禅大好きおじさん、沢木興道禅師の言葉に

「我々は悟りを開くために修行しているのではない。悟りに引きずられて修行しているのである」

というのがある。



妙好人、浄土系の、信頼の道を歩んだ浅原才市は、ある坊主が「信心を得るのは宝くじが当たるのと同じくらい難しいことだ」という説法をしている時に、突然立ち上がり「当たった!当たった!わしに当たった!」と叫んだという。



瞑想の道、ひたすら坐禅をしたり、日常的に気づきを保とうとする道

信頼の道、何が起きても「南無阿弥陀仏」と唱え、全ては「仏様のおかげ」と信ずる道



どちらも究極的には自力、他力で言えば「他力」に落ち着く。

仏を、神を信じられない人は瞑想から入るし

坐禅なんかやってられん、仏様が救ってくれるとワシは信じとる、という人は信頼から入る。



信頼から入った方が近道のようにも見えるが、なかなかその「神」やら「仏」やらを私たちは信じにくい。

たとえ信じているように見えたとしても、それは聖書や仏典などの書物にある神や仏の存在を信じていただけ、ということもよくある。



私たちを生かしている一瞬一瞬の動き、憎しみ、喜び、歩き、坐禅、YouTube見、鼻毛抜き、その全て…

これらのエネルギーの源泉、万物を生かしている大元をそっくりそのまま信じる、というのは大変難しい。



であるからして、私のような才能のない人間は瞑想の道から入り、そして浅原才市のような、ダヤやサハジョのような「信頼の人」の言葉に惚れ込むのだ。



ゴータマ・ブッダの言葉のようなお堅く、論理的で、あまり美しくもないものは彼らから出てこない。

彼らは教養がないゆえ、いかなる経典から言葉を1ミリも引っ張ってくることなく、自分自身の体験のみから言葉を話す。



妙好人、日本人の信頼の道を歩んだ人たちに関しては、鈴木大拙の「妙好人」が大変わかりやすい。

鈴木大拙に関してはこの本以外あまり好みではないのだが、これに関しては妙好人たちの美しさが鈴木大拙に染み出している。



ちなみに私が世話になっている住職から勧められたものだ。

間違いないだろう。





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