勝手な持論である。



もしこの宇宙に目的があるとするならば、恐らく創造者の遊びのためだろう。

私は自分の意識、衝動、瞑想を頼りにしばらく生きてきたが、どうにもこうにもその生き方では摩擦、苦しみが生まれない。



いわばこの意識は宇宙そのものであるわけだが、なぜその宇宙意識であれば苦しみがなくなるのか?

それはそもそもこの宇宙が我々に苦しんでほしくないからなのかもしれない。

我々には苦しまずによりたくさん生き延びてもらい、この宇宙のゲームを続けてほしいのだ。



もし苦しんでしまったなら現代人のように自殺他殺問わず死んでしまう恐れがある。

それはこのゲームを遊んでいる奴からすれば困るのだ。

人間という駒がいなくなればそれだけ面白味が落ちてしまう。



最近パワーストーンを多用しているが、その実験の過程、手に入る石、元々家にあった石、洞察、ありとあらゆるものが驚くほど与えられる。

これは私自身の苦しみを取り除き、より生きながらえさせる結果にもなるが、私がパワーストーンの記事を書くことによってより生きながらえる人も出てくるであろう。



そうなれば宇宙は支援せざるを得ないのだ。

私のような人間だろうが、より生物を生きながらえさせる動きを見せるなら、それは創造主(という観念が便利だし私はその観念が好きなのでそう呼ぶが)も喜んで「お、私のためにも頑張れよw」と力を貸すのかもしれない。



というようなことをニール・ドナルドウォルシュの「明日の神」でも読んだ(は?)。

ブックオフで立ち読みしただけだが、彼のシリーズでは比較的マシなものだったと思う。

あと「神へ帰る」なんかも好きだった気がする(うろ覚え)。



チャネリング本だとあとは「バーソロミュー」なんかも比較的役に立ちそうだったと思う。



他人に与えよとか、他人を助けよとか古くから言われてるのはそういうことなのかもしれないとふと思った深夜である。




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