楽しみは外側の対象物に依存しているように見える。

例えば私であれば、散歩、読書、マンガ、お笑い、ゲーム実況…



が、本質はそうではない。

どれだけ「私」がいないか、ということが喜びに直結している。

感覚でいえば、「我を忘れる」とか「時間を忘れる」という感覚だ。



もちろん瞑想も「我を忘れる」の筆頭ではあると思う。

が、私はそこまで瞑想が好きではない。

もし1時間瞑想するか1時間ゲーム実況の配信を見るチャンスがあれば間違いなくゲーム実況の配信を見る。



確かに瞑想は絶対無であり美しく、苦しみがないのは事実だ。

が、アホみたいな時間瞑想してきた身としては、むしろ我々はこの世界、この惑星に「無」を経験しに来たのではなく、「有」を経験しに来たのかもしれない、ということだ。



光明を、悟りを私は必死に追い求めてきたわけだが、それを求めれば求めるほど「それ以外」の世俗的なことこそが重要であると感じている。

なぜかといえば真理の探求、神の探求は「私」「エゴ」が為すことはできず、それをやるのは「神」のエネルギーだからだ。



まあ突き詰めればどんな行為だって神のエネルギーなのだが、ここではそんな洒落っ気のないことは言わない。

とにもかくにも、真理の探求も、瞑想も、起こる時に起こる…というか、「私」にはそれを起こすことができない唯一のものなのだ。



スポーツ選手になったり、芸能人になったりするのは「私」の努力でどうにかなる可能性は誰にでもある。

が、こと瞑想に関してだけはどうしようもないのだ。



探求者に瞑想が起こりやすいような状況を作り出すことはできる。

身体からストレスを、摩擦を取り除くことだ。

まあこれは探求者でない人にとっても必要なことではある。



瞑想を知識として、体験として学び、どういうものか理解したのなら、それを忘れてしまって構わないだろう。

あとは神が仕事をするから、「私」は席を開けて黙っているのみである。




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