鬼滅の刃 無限列車編 的なことだろうか(?)。



いきなり脱線するが(列車だけに)映画になった無限列車編よりも、その後にテレビアニメで放送された遊郭編の方が話としての面白さもアニメーションの凄さも上だったと感じている。



私は原作を読んでもそれほど面白いとは感じなかったが、映像で絵が動いているのを見るととても面白く感じる。

遊郭編なんかを見るとこれを作った人たちの魂が垣間見える。



ん?

魂があるなんていう奴は愚か者だとか前に言っていなかったか…?



まあこの場合私は「無私の精神」とか「無我」の意味合いで使っている。

世間ではいかにも「強いエゴ」という意味合いで使われていることの多いことか。



この「無私」とか、あるいは「献身」のようなものを見ると多くの人は感動するのだろう。

私の好みで言えば高校球児のチームへの献身であったり、選手としては通用しないと判断してマネージャーに転向する高校球児であったり、高校球児と信頼のおける監督との関係性であったりだ(高校球児ばっかりだな)。



まあ高校球児じゃなくても先ほどあげたアニメーションを作っている人であったり(偏見ではあるがそれほどお金ももらってないであろう)、サッカーでは誰よりも守備に奔走する人であったり、介護士であったり、幼稚園の先生であったり、飼い犬に引き摺り回されているおじさんであったり…

その辺を出歩くだけでもこの献身性は目につくものだ。



とにもかくにも続編の「刀鍛冶の里編」も大変楽しみなのである。あと進撃の巨人ファイナルシーズンも。



で、本題に入るのだが、この身体滞留エネルギー、カタルシスした時のエーテル体以前から肉体への染み出しについてだ。



これはOSHOのダイナミック瞑想やボブフィックスの瞑想のみならず、日常の中でも体験することがしばしばある。



例えば寝起きに怒りっぽくなったり、長く起きていると身体が痒くなったり(私だけか?)、アトピーであったり(これは肉体に留まりきれなかったエネルギーが出どころを求めた、エーテル体→肉体よりも更に表面的な、肉体→皮膚の表面というものだろう)、女性の生理により身体が重くなったり、翌日むくんだり…



また、身体をうつ伏せにして寝かす、ということが起こるのも、肉体まで浮上したエネルギーを放電するために起こっているのではないかと推察している。

あとはただテレビをボーッと見ている時もだ。

とにかくこの放電には「何もしない」ことが役に立つよつに思える。



これに関しては何もしないことがほぼ最善なのだ。

ましてや、「あたし脚がむくんじゃうのイヤ〜(>_<)」などといってタイツを履きながら寝る女子高生やOLなんて論外である。



せっかくエーテル体から肉体にストレス、エネルギーが出ようとしているのに、それを物理的に抑え込んでしまうわけだ。

まあ私も心は女子高生なので気持ちはわかるが(?)、キレイになりたいならストレスなんて吐き出すに越したことはないのである。



ケツからう◯こが出てきているのに、それをわざわざ手でケツの中に押し戻そうとしているようなものなのだ。

「汚い」と思われるかもしれないが、それほど「汚い」ことをやっているのだ。



またこれも私の心が女子高生だから(?)わかることなのだが、女性の生理というのは大変よくできたシステムなのだ。

多くの人は男女共にただ面倒くさいものだと感じているかもしれないが、これは肉体のシステムの為のみならずストレスの解放に大いに役立っているように思える。



男性と女性でどちらがより病的かを見れば一目瞭然だろう。

自殺数というわかりやすい指標を出すまでもなく、争い事の原因、行動の一つ一つの暴力性、誰よりも秀でていないと気が済まない性質…などなど。

「男性性」「女性性」という言葉があり、さもそれぞれにそういう精神的性質があるように感じられるが、私としてはシンプルな肉体のシステムの違い、エネルギーを吐き出す装置がついているかどうかの違いが事の発端ではないかと推察している。



ま、近年ではそんなストレス発散装置では間に合わないくらい女性もストレスを溜め込んで、男性と遜色ないくらい病的な人は増えたけどね…。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ