彼についての報道が増えれば増えるほど、彼にある程度の知性があったのが伺える。



結果的にはすべて彼の思惑通りになったわけだ。

もちろん彼のやり方がまずかったのは間違いない。

なぜかといえば安倍さんにもこれから先も生きる自由があり、何よりショットガンで撃たれるのが痛く、苦しいからだ。



しかしながら、山上さんに関しても幼少期から今日までかけて宗教に苦しめられてきたわけである。

その苦しみはショットガン一発よりもはるかに大きかったように思える。



もし私が私の遺伝子と肉体で彼の環境に生まれたら、どうにかすることができただろうか?

これに関して何を言ってもナンセンスだが、そんなことよりも、一歩違えば私自身が私の人生で誰かを殺して問題を解決しようとアプローチしても何もおかしいことではなかったと感じている。

まあOSHOによれば、もし正常な脳を持っていれば成人するまでに「誰かを殺したい」と願う回数は約8000回に上るらしいので、特に心配する必要はないだろう。



彼ほどの悪臭漂う環境ではなかったものの、重度の鬱病を発症し、たまたま、偶然近所に覚者が住んでいて、たまたまその人が無料で何十回も会ってくれ、たまたま救われたわけである。

もし彼に出会わなければ、恐らく私に関しては性質上誰かを殺す可能性は低く、自殺していた可能性が高い。

まあそれでも殺人:自殺の可能性は4:6くらいであっただろう。



そして彼はたまたま宗教に苦しめられたわけだが、この世でどうしようもない圧力、弾圧、我慢というものは無数に存在する。

国内外問わず現在進行形で、特に経済的に自立しようのない子どもが苦しんでいるだろう。



そして彼らが我慢しきれずどうにか世の中に「どうにかしてくれ、助けてくれ」と叫びをあげ、それが法律に触れていたならば、世論は「そうか、では、死ね」と言うわけだ。



あと彼に対して死刑を求める声に対して思うことなのだが、「誰を殺したか」は争点になることではない。

もちろん世の中は平等ではなく、命の価値は不平等である。

ビルゲイツやクリスティアーノ・ロナウドの方が当然私よりも価値がある。



が、法律だけは平等でなければならない。

現在も親族や子ども、恋人を殺された人が生きているわけだが、そういった人たちは自分の大切な人を殺した人が懲役刑で、元総理を殺した人が死刑だと言われた時に納得できるのだろうか?

自分の大切な人の命<安倍さんの命であると間接的に法律で示されることになるが、それで納得できるのだろうか?



まあ本音を言えばどれもこれも私には関係のない話だ。

もし私に願いがあるとするならば、苦しみたくないという人が、苦しみ少なく生きられたならそれで充分である。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ