瞑想の始めでは、「意識と思考」「意識と肉体感覚」「意識と周囲の音」に分離させ、「私」を意識の視座に置く。
テクニックとしては有効であり私もその道を歩んできたわけだが、これには一つ問題がある。
長年瞑想をしたにもかかわらず、
苦しみに巻き込まれてしまう
すぐ怒ってしまう
といったことが起こると、瞑想がうまくいっていないのでは、と思う探求者が生まれる。
まあ瞑想を続けるとこの「私が瞑想をしている」という感覚も勝手に落ちるので心配はないのだが、役に立ちそうな観念が浮かんできたので書き記しておく。
それは「今この瞬間にあるものがすべてだ」というものだ。
「そんなことは言われなくてもわかってる」と言われそうだが、瞑想者が意識的でないことに、瞑想的でないことに罪悪感を抱くことがある。
これは「意識である私」と「思考や肉体感覚」を二分したことから生じるトラブルであり、二分したことによりどこかでそれをコントロールできる主体がいるのではないかという錯覚が生まれる。
が、事実はといえば、今この瞬間にあるものが全てであり、それこそが「私」なのだ。
この瞬間を遠くから観察している意識としての主体、「私」ではなく、この瞬間に存在しているもの…
今の私でいえば
やっすいベッドに横たわっている背中の皮膚感覚
湿度が高いのでドライの風が出てるエアコンの空気の感覚
ちょっとおしっこを我慢している膀胱の感覚(はよトイレいけ)
また、これら全ての感覚に「明晰に気づいている」というわけでもなく、「これら全ての感覚を忘れ、無意識になり、いまここにはいない」という感覚も「この瞬間の全て」であり「私」なのだ。
この考え方をすると、死への理解も簡単になる。
なぜなら「死」という瞬間が起こり得ないからだ。
例えば病室で癌で苦しんでいるとする。
癌の痛みがあり、ベッドの感覚があり、人生への後悔の思考や、「死にたくない」という思考が湧き上がることはある。
痛みに耐えきれず失神することもありうる。
が、どこまでいっても「死」というのはこの瞬間には起こり得ない。
周囲から観察すると、時間経過の感覚ゆえに、「今まであったものがなくなってしまった」ように見えるが、この「私」の感覚でいえば、どこまでいっても死を経験することはないのである。
意識と肉体を分けるという観念だと、「肉体は死ぬけど私は意識としてあり続けるんだ」なんて考え方になりがちである。
そうなるとどこかこの生から分離したものがどこかに存在しているように感じられ、この生が希薄であるかのように思われる。
が、実際はそうではない。
この瞬間が私であり、この宇宙が私なのだ。
俺の胃袋は…宇宙だ(2000年に放送された草彅剛主演「フードファイト」より。私はまだ幼かったがなぜかめちゃくちゃ面白かったと記憶に刻まれている。ちなみに最近ではドラマを見ることはめっぽう減り、最後に見たのは新垣結衣主演の「逃げるは恥だが役に立つ」である。これを見たのだって、「世間が話題にしていたから」というのがまずあり、また私が新垣結衣が好きだったからという理由があってこそである。括弧の中が長すぎるだと?近頃の括弧警察は本当にうるさいな…)。