千手観音というやつがいる。

腕が千本生えたやつだ。

私たちはその腕の一本であり、その腕を動かしている本体は一つのものである。



もちろんその腕の一本が寿命を迎えて腐り落ちるということはある。

あるいはかなり膿んだり再生不能でその腕が苦しんでいるなら切り落とす方が賢明な判断であることもあるだろう。



が、もしその腕はまだ健康で生命力を帯びているなら、その腕を切り落とそうという判断をするだろうか?

その腕が周囲の腕を攻撃し、別の腕を切り落としてしまうかもしれない。

だからといってその攻撃性の高い腕を切り落とそうと思うだろうか?



もちろん放っておけば別の腕も攻撃しかねない。

その時は別の腕を攻撃できないように隔離した場所に腕を移して治療すればいい。

それをなくしてしまおう、という考えが私には理解できない。



もし一本の腕の攻撃性が高いのなら、観音本体に責任がある。

その暴力的なエネルギーが腕の一本にたまたま流れ込んだわけだが、それが「たまたまそうなった」とは理解できないだろうか?



私たちは「魂」という観念を使いたがる。

この肉体にどうやら一つ入ってるらしい。

そしてそれが清ければ当然犯罪行為なんぞしないのである。



もし仮にそういった清い魂なるものがあったとして…仮にマザーテレサの魂としよう(マザーテレサの行いが清かったかは別として)。

そのマザーテレサ魂(帝京魂的な)が今回安倍さんを殺した犯人と同じ遺伝子の肉体に入り、同じ環境で育ったとする。

果たしてその肉体は安倍さんを殺さないだろうか?



いや、間違いなく殺す。

同じショットガンの作り方で、同じ日に殺すだろう。

なぜか都合のいい時だけ我々は魂なんて言葉を使う。

普段は遺伝子と肉体の奴隷だと言いながら、いざ自分がマウントの取れる立場になれば、「その人の努力が〜」「その本人の資質が〜」などと言う。



その「資質」とやらが、「遺伝子、肉体、環境」に依らない、「何か特定の行為をする人」が存在すると思っている人が大勢いる。

では、果たしてその「資質」とやらはなんなのか?

「遺伝子、肉体、環境」ではない何かだとするのならば、一体なんなのだ?

と問い詰めたいのである。



まあだから、特定の行為する人が存在しているという論者…グルジェフであったり、無明庵EOであったりに私は賛成できないのだ。

EOは死刑に賛成の立場である。

この死刑制度のことだけに関わらず、彼の本や文章を読めば読むほど賛同できない面が見えてくる。

彼が知性的で、美しい文章を書くのは間違いないが、両手を挙げて賛同はできないのである。



「分割自我復元理論」に関してもそうだ。

彼は自我を1%、2%と分割し、100%になればそれを「全自我」と呼んだ。

もちろん誰にとっても言葉の定義は違うし、彼がそれに関して何を指しているか明確に理解することは不可能であろう。



仮にそれが昨今の精神世界が指す「自我」の意味合い、個人的行為者感覚、分離した自分だとするなら、そもそもそれには実体がないのである。

それが1%あったり、95%あったりすることはない。



仮に私が呼ぶ「意識」というものであったとしても理解はできない。

別に瞑想を続けたからと言って、1日24時間意識的に、いまここにいて、醒めているようになるというわけではない。



思考が沸き起こる時もあり、

思考がない時もあり、

「私がやっている」という感覚がある時があり、

「私がやっている」という感覚がない時もある。

その全てが一つのスクリーン上でただ沸き起こっているだけで、それを個人の観点から見ても「自我度95%だな」とか、「意識度95%だな」とはならないのである。



瞑想の恩恵とは、その全て、「自我」だろうが、「意識」だろうが、「思考に巻き込まれて苦しむこと」だろうが、「いまここ」だろうが、その全てに「自分」「自己」が関わっていないという理解であり、決して「完璧さ」「完全ないまここ」といったものが伴うわけではない。



まあそれでも彼の文章の美しさ、洞察力が消えるわけではない。

彼と池田晶子の文章はほぼ芸術作品のようだと私は思っている。

池田晶子と死刑囚の対話みたいな本があるのを思い出した。

また図書館で取り寄せて読もうかな(勝手にどうぞ)。




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