誰もが何の責任も負わない社会になればいいなとふと思った。
昨日ショットガンを撃った人がいるのだから本来は「責任を負うべき」と言うべきなのだろう。
が、要は「ショットガンを撃たざるを得ない状況をつくらなければいい」のだ。
私は匿名掲示板をよく使う。
もちろんそこでは誰もが匿名、無名である。
誰もが言いたいことを言い、気に食わないことがあればそこら中で喧嘩が起きている。
実にナンセンスである。
この「言いたいことを言える」というのは持続化する、固定化する「名前」がないからこそなのだろう。
昨日も、今日も、明日も、この先もずっと同じ名前で、その名前が行為したと周囲に思われて、その名前に責任を持たされる。
もしそうなら自分が何を言うかどうか、何をするかどうかは常に気を張っていなければならない。
喧嘩をするのはナンセンスだと言ったが、これはその場でエネルギーが放たれているので蓄積しない。
また匿名掲示板であるゆえ物理的な暴力による損害もない。
時には好きなことに関して語り、時には相手を言葉の暴力で傷つける。
ただエネルギーの交換だけが行われている。
このエネルギーの交換というのは別に自然なことであり、全宇宙でこれは行われているのだ。
人間社会が不自然になってしまったのは、このエネルギーを滞らせ、抑圧させ、保持させ、閉じ込めてしまったことにある。
常にエネルギーのダイナミズムだけがあるのならば、そこには何の軋轢もない。
TwitterみたいなSNSで無名のものがあればいいのに、とは思ったが、これは軋轢を生み出さないものの、自我を肥えさせることもできないことに今気づいた。
匿名掲示板でも「コテハン(固定ハンドルネーム)」と呼ばれる「半匿名」のようなものが存在する。
「完全な無名」というのは受け入れ難いのだ。
誰もがみんなと違っていたいし、名前が欲しいし、特別でいたい。
「自分がやった」という功績が欲しい。
まあ特にいいアイデアがあるわけではないのだ。
寝て選挙の結果を待とう。
ちなみに私は期日前投票を済ませている。