安倍さんが銃殺されたらしい。
スピリチュアル的なことで何か書くことがあるかといえば特にないが、この死というのは我々にだって明日にでも訪れるわけである。
もちろんショットガンで撃たれるなんてことはないが、日本ではショットガンで死ぬ人よりも断然交通事故で死ぬ人の方が多い。
私が以前テレビのニュースを見て感銘(?)を受けた交通事故のニュースがある。
普通に歩道を歩いていただけなのに反対車線の車が色々あって吹き飛んできて死んだというものだ。
もしこんな状況があるのなら、身体能力とか、気づきとか、注意能力とか、そんなものがいくらあっても死ぬ時は死ぬものである。
これは私だけなのかもしれないが、この「命の軽さ」というのは私をとても安心させる。
明日にはこの世界から肉体が消えてしまう、それだけ刹那的なもの…
これは不死への理解とか、意識には何者も触れられないという類のものではない。
今自分で洞察すると、あらゆることをこの生で経験させてもらえたからなのだろうか?
高校生の時にはすでにもう「何の楽しみもないから死にたい」という話題で友人と盛り上がり、「30歳くらいで死ぬのがベストだよな」なんて話をよくしたものである。
そして今年30歳になり、今日は安倍さんのニュースでテレビは埋め尽くされていたのでTVerやAbemaの録画を見てヘラヘラ笑って楽しんでいるわけである。
トニー・パーソンズのことに関して書いたが、こういうニュースで「殺される人はいない」「誰も死なない」なんて非二元思考は何の役にも立たない。
が、ラメッシ・バルセカール流に言うなれば、「安倍さんは今日ショットガンで死ぬように運命づけられていた」とは言える。
これを聞いて気楽になる人は取り入れたらいいし、受け入れられない人は無視したらいい。
が、私はこの考え方が大好きだ。
私はコールオブデューティモバイルというスマホのFPSのゲームを毎日やる。
瞑想はやらなくてもこのゲームだけはやっている気がする。
このゲームのショットガンやスナイパーライフルというのはいわば「ワンショットキル」が可能であり、うまい人であればこちらが何の抵抗もなく殺されてしまうので私はめちゃくちゃ嫌いだ。
今回の犯人がショットガンを使っていたとはいえ、毎度恒例のように「犯人はクズだな」という浅はかな理解だけでは終わらないで欲しいとは思っている。
犯人が突然安倍さんの後ろにワープしてショットガンをぶっ放したわけではない。
犯人にも幼少期があり、青年期があり、大人になり、そこまでで積もったありとあらゆる因果でそういう結果になったのだ。
昨日は因果なんてないと言い、今日は因果があると言う。
まあ私はスピリチュアルにおいても因果というのは主張した方が役に立つと思っている派閥である。
そう…探求者にとって役に立てばどんな考え方でもいいのだ。
あ、そうだ。
今TVerではバスケットボールの3x3のアジア大会が生放送、録画どちらも配信されている。
目につきにくい情報だからここで宣伝しようとふと思った。
バスケ好きな人はどうぞ。