昨日TMについての記事を書いたが、OSHOはTMのことを「マントラを繰り返し唱えることによって自己催眠をかける詐欺みたいなもの」と痛烈に批判していた。

時代的にビートルズなども実践しており大流行していたこともこの批判の原因の一つだろう。



が、実際にはそれは事実とはかけ離れていたわけである。

当時が今ほどインターネットというものが普及しておらず、本などの媒体でしか他国のことを知ることはできなかったとはいえ、OSHOだとか悟りを得たマスターでも間違いを犯すのだ。



また、OSHOは講和の中でグルジェフのことをたびたび称賛するが、私は何度グルジェフの本を読んでも彼から悟りの味を感じたことはない。

それゆえ「何かを参考にする」という意味合いでグルジェフの本を読むことはない。

つまり、「OSHOの言ったことは信用していない」のだ。



それでも日本で出版されているOSHOの本は全て読んだし、私を導いた寺の住職の覚者もサニヤシン(OSHOの弟子)である。

「OSHOの言ったことは信用していない」が、「OSHOのことは信頼している」のだ。



「信用」と「信頼」の違いは何か?

自分でもよくわからないので今考えてみる(は?)。



まず「一つ一つの言葉に右往左往しないこと」が前提条件としてあるので、その人物の多くの言葉に触れる必要はある。

そしてその言葉の背後にある意図、一筋の潮流のようなものを見出さなければならない。



これは別に真理探求に限ることではないように感じる。

ブッダ、イエス、OSHOなどは悟りを得させるという目的があり、その目的に沿ったさまざまな方便、嘘を使う。



例えば陸上の1500m走の選手のコーチであれば、選手のタイムを伸ばすために100m×20本とメニュー表に書いてあったのを、突如20本終了後に5本追加する(ちなみに私は陸上経験者であるがそんなコーチは信頼しない)。



そして、必ずしもその人間の言うことが心地よいとは限らない。

特に真理探求の道では「自我」「わたし」を消すこと、殺すことが行われる。

それに関して自我が「おっけー殺してもらって大丈夫っすw」と最初から明け渡すことなどあり得ないのだ。



私は出かけた先の本屋でふらっとOSHOの本を立ち読みしてパッと適当なページを開き、「今日のありがたい言葉でも一つ頂こうかな」と占い感覚で使ったりするのだが、そんな時に「あなたは無意識でまるで生きていない。今この瞬間もあなたの両手から生は滑り落ちているのだ」なんてことを言われたりする。



「ひど」

「そこまで言わんでもええやろ」

「今そういうつもりじゃなかったのに」

と思うことも多々あるわけだが、それでも彼が私の目的から外れたことを言ったことはない。



そして自我が不快になるのを了解しながらも何度も本を読むのだ。



すなわち「信頼」をわかりやすく言うなれば「青汁」なのだ。

健康という目的のために、まずいのをわかっていながらも何度も飲む。

そしてそれが自分を健康にしてくれるのを表面的な不味さにとらわれず、奥深くでは理解している。



「信頼」とは、「まずい!もう一杯!」なのだ。




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