私は倉庫内作業と食品工場で働いた経験がある。
その経験を踏まえて言えるのは、「誰でもできる仕事」というのはないということだ。
倉庫内作業では支給された箱の中に衣服を一定量ピッキングしていく作業をするのだが、話を聞いていなかったのか一定量を上回ってしまいキツめに怒られた。
また、一日中歩いていなければならず、元陸上部の長距離ランナーであった私の脚ですら後半はまともに動かなくなっていた。
食品工場では工事内でも様々な仕事に分化されており、私にも得意な作業と不得意な作業があった。
私は「サラダを容器に一定量盛り付ける」という仕事が不得意であった。
一定量の野菜を容器の片隅に、見た目も美しく、それを瞬時に行わなければならない。
ミニトマトを置くだけなら私もできそうなのだが、キャベツの千切りのような「ふわふわしたもの」を崩れずに、グラム数まで守ってやるのは至難の業であり、「アナタニホンジンデショ シッカリシナヨ」とよく外国人女性労働者に怒られていたものである。
またこの仕事も立ちっぱなしであり、ただ立っているだけというのは歩いている以上に腰にダメージがきてキツい。
私が経験上言えるのは、「誰にでもできそう」なだけであって、「誰にでもできる」というわけではないということだ。
ただ物を置くだけ、ただ立っているだけ、というのは理論上では「できそう」ではあるが、果たしてその辺の人間100人をピックして、「ただ立っている仕事」を1ヶ月させて耐えられる人間は一体何人残るであろうか?
100人全員ができるのでなければ、その仕事には間違いなく向き不向きがあり、その仕事をこなせる人には「希少価値」があるのだ。
では当の私はそれらの仕事を全く見下していなかったのか?と聞かれれば、間違いなく見下していたのである。
が、「神のバランス調整」とか「意識の真ん中に戻す作用」とでも言おうか、そのせいもあってかそれらの仕事を経験するようになり、結果的にそれらの仕事を尊敬せざるを得ないようになったのである。
スピリチュアルの観点でいえば、確かに起こっていることは最善であり決定事項かもしれない。
が、「より善い」ということがない、というわけではない。
動物園を例にしてみる。
「ゾウゾーン」「キリンゾーン」「ライオンゾーン」などがあるのはご存知であろう。
ゾウがいるべきところにはゾウがおり、キリンがいるべきところにはキリンがいる。
が、現代社会を見渡せば、「ゾウゾーンにキリンがいる」のだ。
なぜかといえばキリンのくせに、「ゾウゾーンが求人(求象)募集をしていたから」「ゾウゾーンの時給がよかったから」「ゾウゾーンは社会的に尊敬されるから」といった理由でキリンがゾウゾーンに就職してしまっている。
当然キリンの周りはゾウだらけでおり、馴染むこともできず、餌も合わず、ゾウのようなパフォーマンスもできずに苦しむわけである。
野生動物を見渡してみればわかるが、彼らは緊急時以外は緊張していない。
ゾウはゾウをやっており、キリンはキリンをやっている。
まさにあるべきところにあるので苦しみがない。
もし仕事を選ぶ基準があるとすれば、その仕事をやっているところを想像して、いかなる苦しみも緊張もないかを確かめてみるべきだ。
また、「やりたいことをやる」「ワクワクする」ということとも違う。
別にゾウもキリンもワクワクしているわけではない。
そういった一種の「興奮」「喜び」よりも、「落ち着き」「平安」「リラックス」という観点から見たほうがあるべきところに収まるように感じる。
もしリラックスし、自分自身を頼りにするなら、その個体は必ずあるべきところに収まる。
というか宇宙全体は本来あるべきところにあったわけだが、自我がだけが独自の「こうあるべき」を持ち出し、その宇宙から勝手に外れただけなのだ。
自我よりも宇宙のパワーの方が間違いなく強い。そしてあいつは賢い。
常々私は神を罵ってきた人生であったが、その度にあいつの賢さを見せつけられてきた。
さっさとあいつに任せて生きた方が楽なのかもしれない。