宇宙全体をスライムと考えてみる。

我々の肉体もスライムだ。

その肉体スライムから怒り(△)を放出する。







すると左のスライムは△分の空きが出てしまう。

この宇宙の法則として、全てのものは変化し続けるというものがある。

簡単に言えば「落ち着いていられない」のだ。

この空いた△分は埋められなければならない。







これがいわゆる「全部自分に返ってくる」であり、「与えよ、さらば与えられん」である。



今回の絵の場合は目の前に人がおり、目の前から怒りが返ってくるように見える。

実際に目の前に人がいればそうなるであろうし、それは想像しやすいだろう。



が、これは目の前に人がいなくても同じことだ。

怒り(△)を出せば同じ形の△が入ってくるし、喜び(♡)を出せば同じ形の♡が入ってくる。

もちろん即時にというわけではないが、いずれ宇宙から返ってくる。



肉体やエーテル体、経絡などに怒り(△)が入っていれば、それは日常的に噴出してしまう。

ストレス満タンな人たちがとても早く歩いたり、大声で話したり、クラクションを何度も鳴らしたり、肩をぶつけたり、ドアを大きな音で閉めるのを見たことがあるだろう。







そうすれば当然周囲から同じ怒り(△)が入ってくることになる。

すなわち、肉体にあるストレスを取り除くことで、日常で経験する怒り(△)を減らすことができるのだ。



では喜び(♡)はどうかといえば、そもそも喜びはそんなに身体にストレスとして蓄積しない。

そもそも蓄積するのは抑圧、我慢して溜め込んだものなので、喜びを我慢する、ということはなかなか起きないのである。



それでももちろん幼い頃から「喜んじゃいけない」という教育、条件付けを受けてきた人が喜びを抑圧してきたということは起こりうる。

そういう人は肉体の抑圧された喜びを解放すれば、その反動としての喜びを得られるわけである。



なんとなくではあるが、これはお笑い界によく見受けられる気がする。

幼い頃貧乏だったとか、どうしようもない環境だったという人が何人か思い浮かぶに違いない。



では怒りも喜びも肉体に抱えない人はどうなるか?



外部から当然怒り(△)が飛んでくることはある。

が、それはその場で発散することはしないだろう。

なぜかといえば単にそれは愚かしく、トラブルを引き起こすゆえ面倒くさいのだ。

その場で観照されるか、肉体に溜め込んだ場合は家で瞑想でもするだろう。



喜び(♡)を与えられたらどうか?

それを抱えているのも重荷になるのだ。






こんな風に。

だからこれも吐き出す。分け与える。

そうすればいつでも身軽にいられる。



要はこれはただの因果関係である。

さらに一歩進んだ話をすれば、「そんなことはどうだっていい」だ。

なぜならこの法則に介入することも、コントロールすることもできないからだ。



猫は自分の身に危険が起きれば威嚇するし、全力で逃げる。

チュールを人間様に与えてもらえれば無心に貪る。

人間にスリスリもするし、そっぽもむく。



そんな「ただの猫」のように、「ただの人間」として生きる。

これ以上のことはないだろう。




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