人類みたいで非常に面白い。ネズミが苦手な人、及びドラえもんは見ない方がいい。
我々もネズミと変わらないのだ。
大勢の人がどこかへ向かっているからそちらが正しい。だからついて行く。
が、ついていった先には「不自由な箱」がある。
「今いる場所」「箱の外」に落ち着いていれば不自由な身にはならなかった、という皮肉なことが起きているのである。
先日瞑想と肉体の状態の関係性について書いたが、これはフルフィルメント瞑想の場合も同様である。
マントラを唱えて、ヤントラをイメージする、という手順を踏むだけであとは瞑想状態に勝手に導かれるというのがこの瞑想なのだが、それが起きにくい肉体もあるということだ。
99.9%の人は間違いなく瞑想が起こる。
が、私の健康状態が特殊であったために、瞑想が起きる時と起きない時があった。
初心者の人はまず「瞑想が本当に起きているのかどうか?」と不安になる。
これを瞑想の伝授を受けた人が瞑想教師(伝授をする人)に聞くと、「あなたがどう心配しようが起きています」とロボットのように繰り返す。
が、かなり特殊とはいえ私に起きなかったこともあるのだから他の瞑想者でも同じように苦しむ人がいるかもしれない。
結局は個々人の知性で「こりゃ本物か?」と確かめるしかない。
わけではあるが、私がこのフルフィルメント瞑想で瞑想が起きてるか確認するために使っていた方法を記しておく。
あくまでも、「私の肉体ではこうだった」というだけなので注意は必要である。
一つ目は、身体のどこかに力を入れてみる。
手首、指、大腿筋、別にどこでもいい、
もし瞑想に入っていれば、力を入れようと思った場所に力が入らず、そのエネルギーが力を入れようとは思っていなかった部位から出る。
例を挙げれば、右手首に力を込めたら左手の指が動く、などだ。
ちなみに私の母親もフルフィルメント瞑想の伝授を受けているのでこの方法で確かめて貰ったが、うまくいかなかった(は?)。
二つ目は、不快感の欠如である。
もちろん肉体から摩擦、ストレスが出てくるのでそれを感じない、ということではない。
が、それらが出てきても「全く私は苦しんでいない」という感覚がある。
これはそういった苦しみだけでなく、身体の痒み、退屈感なども同じである。
痒みを感じないわけではない。退屈を感じないわけでもない。
が、それらが現れてもすぐに消失してしまい、全く気にならないのだ。
もしそういった同化が起きていると感じたならマントラを唱え直せばいいだけである。
数分おきに何度も唱え直すのはバカらしいが、違和感を感じた時に一度唱え直すのに大した手間はかからないだろう。
瞑想していたと思ったらただアホみたいに座ってただけなんてことよりはマシである。
「只管打坐」なんて言葉がある故に、「ただ坐ればいい」なんてことを言う人がいるが、もしそうであれば世界中のただ病室で座っているじいさんばあさん、精神病患者、ホームレスにも悟りが起きているに違いない。
しかし彼らに平穏が訪れているとは思えない。
「坐る」にしても、最初は何かを「すること」「やること」が必要なのだ。
別にフルフィルメント瞑想である必要は全くなく、呼吸を見つめたり、思考を観察したりするだけでいい。
その繰り返しの挙げ句に「只管打坐」「ただ坐る」が起こるのであり、最初から「ただ坐る」なんてことは到底できないのである。
