幸せだ。
今日何をしたか?といえば、
電動自転車に乗って川沿いを散歩し、スーパーと100均で必要なものを買い、図書館で好きな本を借りて、無印良品で好きなお菓子を買って帰っただけだ。
(ちなみに図書館で借りたのは
絶望を生きる哲学 池田晶子
無敵のソクラテス 池田晶子
生は「私が存在し」て初めて真実となる グルジェフ
超越瞑想 マハリシ・マヘッシュヨーギー
心の迷妄を断つ知恵 チュギャム・トゥルンパ
成功への扉 相川圭子
時間の終焉 クリシュナムルティ&デヴィッドボーム
オルガスムの機能 ウィルヘルム・ライヒ
だ。我ながら豊作である。)
根幹にあるのは瞑想的であることだ。
もちろん瞑想が起こるかどうかというのはエゴのコントロール下にはないが、肉体、特に胸のあたりのストレスを取り除くと比較的瞑想的でい易い感覚がある。
自転車を規則的に漕ぎ、風を感じ、鳥を眺め、鳥の声を聴く。
また人間を見るのも楽しい。
瞑想が広まらない理由は何なのか?などという思考が湧いてくる。
人々は思った以上に暇で、時間はあるけどそのエネルギーをどこに向けたらいいかの情報だけがなく、自分がやりたいことでもないものでエネルギーを摩耗しているのだな、などと思考が連なる。
図書館で時間を潰しているだけの人、ショッピングモールの椅子に座って時間が過ぎるのを待っている人、おしゃれなカフェでかっこよく見せたがる人、肩で風を切って街を歩く人…
瞑想というテクニック一つを知るだけでより生が豊かになるかもしれないと感じる。
本屋でスピリチュアルコーナーを眺めると、目につきやすいところにあるのは、
「怒りを鎮める方法」
「自己肯定感を上げる方法」
「くよくよしない!前向き思考」
など、問題の一つ一つを解決しようとする本だ。
一方で
「一分間瞑想法」
「書く瞑想」
「マインドフルネス入門」
などといった瞑想の本は端に追いやられていた。
欧米では瞑想が広まっているような気がしているが、日本で許容されないのはやはりオウム真理教などの新興宗教の影響が大きかったりするのだろうか?
結局世の中の少数派であるのは2500年前から変わらない。
まあ他人に押し付けられてやるようなことでもないのでずっとこんなもんなのだろう。
何にせよすぐに瞑想が広まることはないだろうし、世界的なこのバランスの崩壊はしばらく続くだろうなと思う。
いつまでか?といえば、バランスが取れるまでだ。
コロナに対して知性的に、科学を信奉しすぎずに対処し、
戦争に対して知性的に、片方の悪魔だけが存在するという信奉から抜け出す。
こういったことが起こらない限りバランスを取ろうとする世界的な動きは続いていくだろう。
この戦争で終わり、とは私は考えていない。
世界はまだまだ知性的ではないのだ。