彼の瞑想法は「観る」ということが基本だ。


「彼の瞑想法」などと言ったが、これは2500年前にゴータマブッダが教えていたものと同じであり、5000年前にシヴァが恋人のデヴィに語った瞑想法と同じものだ、決して新しくもなく、独自性があるわけでもない。


「観る」ということを別の言い方をすれば「意識する」「感じる」。


「集中する」というのも方向性としては同じだが、それよりもリラックスしたニュアンスになる。


何を観るのか?


呼吸が鼻の穴に触れる感覚を観る、頭の中で動いている思考を観る、歩いている時の脚が動いている感覚を観る、座っている時のお尻が床に当たっている感覚を観る、雨が降っている音を観る


日常に現れるあらゆる感覚を、ただ「観る」、「意識する」、「感じる」。


これは良い感覚だ、これは悪い感覚だ、ということなく、ただあるがままに感じる。


もちろん座って目を閉じて観てもいいし、日常生活の中で、24時間実践可能だ。


むしろドシっと構えて1時間座って瞑想しよう、などと考えるとそれだけで参ってしまう人も多いだろう。ふと思い出した時にやるだけで最初は充分である。



【呼吸を観る】

鼻から息を吸う。冷たい空気が鼻の穴の入り口あたりに触れる。それをただ感じる。


鼻から息を吐く。生ぬるい空気が鼻の穴の入り口あたりに触れる。それをただ感じる。



【思考を観る】

目を閉じて思考を観てみる。


「今日のスーパーの店員クソだったな」「あいつはゴミだ」「ゴミといえば明日ゴミの日だから忘れないようにしないと」「コンビニの店員はめちゃくちゃ親切だった」「あいつは神だ」「神といえば唐揚げ」「唐揚げ棒買いに行こう」


こういった取り留めのない思考が無数に湧いてくる。


世間ではあまり尊ばれない思考も、尊ばれる高尚な思考も湧いてくるだろう。


それをただ観る。


距離を保って、まるで他人に起きているかのように。



【感情を観る】

思考に付随して感情が湧いてくる。


「好きな異性に振られた」という思考から悲しみの感覚が、


「街中で肩をぶつけられた」という思考から怒りの感覚が、


「学生時代はとても楽しかった」という思考から喜びの感覚が湧いてくる。


これらの感覚をただ感じる。


我慢せず、抑圧せず、それを100%感じる。



【肉体感覚を観る】

歩く

脚が前後に動くのを感じる。

ゆっくり歩くといい。


頭の中で言語化して、「今右脚前で、今左脚前で」ということではない。

ただそれを感じる。いわば筋肉の動きだ。


足の裏の感覚に焦点を合わせるのもいい。

つま先から接地して感じる、かかとから接地して感じる。冷たい、温かい。



座る、寝っ転がる

お尻が地面に、椅子に触れている。

その感触をただ感じる。


身体がベッドシーツに触れている。

冷たい、温かい、気持ちいい。


普段は意識することもないこの些細な感覚に焦点を当てて、ただそれを感じる。



細々とした動作

スマートフォンのフリック操作、シャワーを浴びる、コップを取る。


指が、腕が動くのを観る。


まるでそれを自分がやっているのではないかのように観る。


意識的に、ただそのことに焦点を当てて、意識して動作をする。


これもまた最初はゆっくり身体を動かすといい。



食べる

グミを口に放り込む。


冷たい感覚、ぶどうの味。


一口一口ゆっくりと、意識して噛む。舌の感覚に集中する。


「やっぱり果汁グミが一番うまい」「ところでポイフルはグミに入るのか?」などという思考が湧いてくる。


それには全く関せず、また味に集中する。ゆっくりと噛む。おいしい。



話す

意識して話す。


戦場カメラマンの渡部陽一さんをイメージするとわかりやすいだろう。彼自身戦場で一つ言葉を間違えば死につながることからああなったそうだが、彼の話し方は参考になる。


しかしあそこまでゆっくり話せば不審なのは間違いない。


「少しゆっくり話す」と心がけてもいいし、「自分の身体が話しているのを観ている」というスタンスでもいい。



【音を観る】

言葉の解釈をせずにただ聴く。


そのフレーズやメロディの一歩先にもいかず、後からついていくという感覚もない。


ただ今在る音に聴き入る。耳を傾ける。その音に入りこむ。



【その他】

他のありとあらゆるもの、この世に存在し、知覚できるもの全てが瞑想の対象になる。上で紹介したものを応用していただければと思う。


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