朝起きてテントの入口を開けると、青空を水面に映す沼が目の前に見えた。
やはり、水の近くで眠るのは落ち着く。山頂や稜線でのビバーク泊は、見晴らしは良いが気分的に少し落ち着かないものだ。
水辺といっても、沢沿いだと水音がウルサいいし突然の増水などにも警戒が必要だ。
大きな湖も良いが時折風が吹く事もある。
その点、この…稜線鞍部から降りた源頭沼というのは、サイズ的にもロケーション的にも素晴らしい。
「ヒサゴ沼」も好きな沼の一つだが、周囲が1km近くあって景観としては素晴らしいが、少し落ち着かない。
この沼は、周囲は50m程しか無く、まずもって日本人的美意識【ワビサビ】への無意識的欲求を満たしてくれるようで落ち着く。
北海道弁で言うところの…「なんまらあづましい」ノダ。
沼の周囲には白っぽい安山岩と這い松、高山植物が見事に配置され盆栽的な小宇宙を形作っているが、作為的なわざとらしさは微塵も無い。
寝転んだままテントから顔だけ出して空模様を眺める。
下山予定日まで、あと1日あるが予備日を残して今日下山しようと、昨晩寝る前に決めていた。
もう1日粘ってみても、下山出来るのは「旭岳」か「黒岳」のような超メジャーな山しか無い。
せっかく新型コロナのおかげで、珍しく静かな縦走を楽しめているのだ、自ら人混みの中に飛び込む必要は無い。
「東大雪」に向かうには日数も足りないし、「トムラウシ温泉」に下山するにしても「新得」までの足(交通手段)が無い。
結局、拙者には「天人峡」しか無いノダ(天人峡好きだけど…)。
ま、正直に言えば…「娑婆っ気」が出てしまった、という事だ。

珈琲を淹れ、紫煙をくゆらせながら朝の静謐な時間を楽しむ。
やっぱり、山旅には…これぐらいの余裕が必要だ。
まったりと飽きるまで景色を眺める時間と、寄り道、出来うれば…昼寝の時間があればサイコーだ。
長い「天人峡ルート」の為に昼食の用意をし、タップリめの行動食をジップロックに準備して、撤収を始める。
うわぁ、やっぱり…ココ、2~3日ゆっくりしたかったな。
ココをBCにして、アチコチ散歩したり探索したりしたら、楽しいだろうな~
頑張れば「天人峡」から1日で来られるし、アレも沢山持って来られるナ。

昨夜、最後の「クラシック」を片付けたから、入山の時から比べると確実に5kg以上は軽くなっている筈なのに、何だろう…この重量感は?
快調に減り続けた「クラシック」に比べて、食糧が殆ど減っていないノダ。
細かい計算はしていないが、少なくとも1日2500kclは摂取出来るよう頑張って沢山食糧を持って来ているのだが、実際のトコロ…1日1500kclも採れていないのだろう。
その証拠に一週間の山行で、体重が確実に3kgは減ってしまうのだ。
原因は分かっている。
昔に比べたら、食が細くなっているのも、日頃…食べ放題に通っていても分かる(店に被害を与える程は食えなくなったもんな)。
とりあえず、ビールでお腹いっぱいになって、炭水化物まで手が回らない(炭酸で胃が膨れてるだけ)。
日頃、炭水化物を殆ど採らない食生活だから、突然…「飯食え」と言われても困る(ウチに炊飯器は無い)。

台風に閉じ込められ、食糧が足りなくなった経験から日程よりも多く持ってきてしまう癖がついてしまったのが一番の原因だが、昔みたいにちゃんと食糧計画を立てたほうが良いのだろうか。
でも、今夜食べる献立が分かっていたら楽しみが無いからな~。「今日は何にしよ~かな、ルンルン♪」と設営を終えて食糧袋をガサゴソしながら迷う楽しみもあるノダ。

縦走路に復帰して「日本庭園」に向かう。
「天沼」の手前で空身のニイサンとすれ違う。
「トムラウシ」に行くようだ。
恐らく「ヒサゴ沼」から大雪渓を詰めて鞍部分岐に上がり、分岐にザックをデポして「トムラウシ」を往復して、「天人峡」あたりに下山するのだろう。
と、そんな事を問い掛けたら「その通りです」と返された。
「自分も昔は良くやったんだよ~。昔は天人峡にもバスあったから、それに間に合う為に走ったりして。自分も今日は天人峡だけど、多分…途中で追いつかれるよ。」
「天人峡からはタクシーですか?」
「いや、今日はのんびり温泉入って、何処かにテント張って、明日の一便のバスで旭川かな~と思ってんだけど…」
先を急ぐ彼の足を止めてもいけないので、「んじゃ、あとで」と挨拶して見送った。

「天沼」を過ぎたあたりで、昨晩「ヒサゴ沼」泊まりだったらしい3人パーティーとスライドした。
若いオネイサンが居たので、小屋の様子を尋ねると「偶然知り合いに会ったので宴会でしたぁ」と応えた(そゆ事訊いてんじゃないのっ)。
どうやら、他の二人のオジサンオバサンがそうらしい。
やっぱり、「クッチャンベツ林道」が開通してから、「沼の原」経由で「ヒサゴ沼」に入る人が増えているようだ。
小屋は外観はキレイになったが「中は余り変わってなかったですよ」と笑っていた。
基礎と鉄骨の骨組みは、そのままに外壁と屋根を張り替えたようだ。
ま、いずれ御世話になる時もあろう。

「日本庭園」を過ぎて「ヒサゴ分岐」に来たら、ザックが2つデポされていた。
んん?さっきのニイサンのと、もう一つは誰のだ?とキョロキョロしてたら、コルの「ヒサゴ」とは反対の沼方面からカメラをぶら下げた30歳過ぎのニイサンが現れた。
休憩がてら立ち話をする。
沼に続く沢型にクッキリと踏み跡がついていて、不思議に思って行ってきたそうだ。
「昔、まだヒサゴ小屋が整備される前にビバークに使われてたらしいですよ。自分も昔…ヒサゴに降りるの面倒くさくて、一度泊まった事があるけど、なかなか良いテン場ですよ」
「どちらから」と尋ねられたので、縦走のあらましを説明しながら、果たして…(積極的)ビバーク泊の事も話してイイ相手かどうか品定めする。
世の中には融通の利かない、ココロの狭い人達も居るから、ちょっとイリーガルなビバーク泊を理解してくれるかどうか、ちゃんと判断して話さないと後々大変な事になる。
この野生の羆的なワイルドさを醸し出す拙者に、面と向かって注意する命知らずはなかなか居ないが、後々…ネットで告げ口されて大事になる事は避けなければならぬ(つか、書いちゃってるしぃ)。

目の前のニイサンは、そこそこキャリアもあり、ルートを外れて探索するココロの余裕もあるようなので、「コスマヌプリ」と「クワウンナイ源頭沼」の話を正直にしたが、彼はどちらも知らないようだった(当たり前だ)。
これから「沼の原」から「クッチャンベツ」に下山すると言った彼と別れ、「化雲岳」へ向かう急登に取り付いた。
急登を詰めると台地状の丘に上がる。振り返った先に「トムラウシ」の岩峰が見えた。
荒い息を整えながら、縦走中何度も思っていた…「登山って大変なんだなぁ」という思いが、つい言葉になって出てしまった。

重い荷物を担いで、一般登山道を歩き山頂を目指す行為を【登山】と呼ぶならば、拙者は随分…登山をしていない気がする。
ルーファイ(ルート・ファインディング=進路探索)をしないで済む…一般登山道を歩く登山は、今の自分には退屈極まりない。
その辺の公園を散歩するのと大差無く、緊張したり不安になる事とは無縁だ。
自分のアタマで考える必要も無い登山道は、誰かに用意された道だから考えたり悩んだり迷う必然は無く、安全だが退屈でつまらなく、物足りない。
以前…登山に於ける山との関係性を「一方通行」と上手い言い方をした人が居たが、恋愛で言えば「片思い」に近い一方向的なアプローチ、それが一般的な「登山」なのだと思う。
それに対して、雪山や沢登りやバリエーションは、山との距離感だけでなく双方向的な関係性を感じるのは、いささか感傷的過ぎるだろうか。
山と1対1で向き合ってる感覚は、リスキーでシビアだが対等な地平に居る充足感をもたらす。
サバイバル登山家の「服部文祥」氏は、その著書の中で…フリークライミングやサバイバル登山を指して、その原理を「お前ココをズルしないで登れる?」という簡潔な言葉で切り取ってみせた。
整備された道や、下界から持ち込んだ食糧、登攀装具にたよらず生身の躯 (からだ)ひとつで山に向かい…「一個の生命体」として山と対等に立つ事から始めるという事らしい。
その為に彼は、その取捨選択の基準が曖昧で個人的価値観に依存し過ぎて他人には分かりにくい、(文明の利器である)道具に頼るスタイルを捨て、最低限のものだけを持ち山へ向かった。

同じように、雪山やバリエーション登山の理念が、整備された登山道に頼らずに山に登る事を指すならば、そこには山と対等でありたい、という純粋な動機がある。
いや、きっかけはもっと単純だったかも知れない。
どうしても、行きたい山(場所)がある。
だが、そこには登山道は無い。
だったら、その山には登れないのか?
そんな事は無いだろう。
ただ、道が無いってだけ、それだけの事だろう。
道が無いのならば、藪を漕いでいけばいいだけの事。
歩き易い地形や植生を探して(ルーファイ)登れば良いノダ。
こんな単純な発想が始まりだった筈。
ズルをするとか、しないとかじゃ無く、別に登山道や装備が無くても山登りは出来んじゃないの?って事だ。

しかし、こいつは皆様が想像する以上に過酷でリスクが高い。
簡単に「真似しろ」とは言えないが、やってみると存外に楽しいし、山との関係性が濃密になる事を保証する。
何よりも、山への理解度が増す。より身近に、より深く。

「化雲岳」に到着し、ザックを下ろして小休止をとる。
何度となく見てきた見慣れた景色ではあるが、ココからの眺望は素晴らしい。
南には今回歩いた「十勝連峰」からの大雪山系最南端「トムラウシ」の雄姿。
東には「沼の原」の向こうに横たわる長大な東大雪の峰々。
北には「忠別岳」の彼方に表大雪の秀峰たち。
西には「化雲岳」から延びる長大な尾根。
これを見て心躍らない岳人は居ない筈だ。
もし居たら、少なくとも…そ~ゆ~人とはオトモダチにはなれそうに無いな。
そして、今見渡せる全ての山に足跡を刻んできた…我が歴戦の苦闘の数々。
今回、久し振りに十勝縦走路を歩いてみて、ちょっと新鮮だったかも知れないと感じている。
全ての縦走路を(往路復路)制覇して、「もう新鮮な感動は味わえないんだ」と少し残念だったが、なんのなんの!すっかり、忘れてしまっている場所が沢山あり、新しい発見や新鮮な感動を数々味わえたノダ。
そう考えたら…来年以降の縦走計画も楽しみになってくる。
但し、二十代のような…15時間もぶっ通しで歩けるような体力は、オジサンにはもう無い。
しかし、今はあの頃は無かった知識やスキルが沢山あり、体力不足を補って余りある臨機応変さも身につけた(気もする)。
大雪山縦走に通い始めて…26年。
まだまだ、拙者には大雪山は面白く、刺激的で、好奇心や冒険心を満たしてくれ、感動と驚きを与えてくれる。

歩き慣れた「天人峡」への砂礫ルートを下り始める。
時折、振り返って少しずつ小さくなっていく「化雲岳」をハイマツ越しに見やる。
今回の縦走も色々あったし、体力的にはキツかったけど、なかなか面白かったよな。
コロナ禍で人は少なかったし、美味いビールも毎日呑めたし、雨に降られたのは入山日の数時間だけだったし、初めてのビバーク地も開拓出来たし、ブロッケンにも会えたし、楽しい山の話も出来たし、怪我もせず生きて下りられそうだ。
とりあえず、早く温泉に浸かって、ごくごくしたい。
もし…「しきしま荘」(天人峡で唯一の温泉旅館ね)に空室があれば、泊まってもいいかな。
いや、このコロナ禍でガラガラの筈だし、尚且つ…今日は拙者の五十数回目の誕生日でもある。たまには贅沢すんのもイイではないか。
よし、そうと決まったら、こんな所でノンビリ煙草を吹かしとる場合では無いっ。
慌てて立ち上がって歩き出そうとしたが、ザックを背負うのを忘れるところだった(慌てるな慌てるな)。

おわり。

【写真1】立つ鳥あとを濁さず
【写真2】ヒサゴ沼全景
【写真3】化雲岳



テン場の外れの草地の上にスタッフバッグに入った合羽と思しきものが置かれていた。
ん?誰かの忘れものかな?
手に取り中身を確認すると、ミレーの白い合羽上着とモンベルの黒い合羽ズボン、アークテリクスの青いウインドブレーカーが入っていた。
サイズは女性もののようで全てSサイズだった。
合羽は少し湿っている。
最後に雨が降ったのは3日前だったから、その日に此処に泊まった登山者の忘れ物なのだろうか…。
そういえば…「美瑛小屋」に停滞した夜、テン場に縦走者らしきテントが二つあり、若い女性の声が聞こえていた。
しかし、その日も前日も一日中雨降りだったから、合羽無しで行動出来るとは思えない。
…とすれば、それ以前に此処を使った縦走者だろうか。
兎に角、このまま放置しておいても羆か狐のオモチャにされて、ボロボロにされるだけだ。
荷物は重くなるが、回収して行くしかないかぁ。
「二つ沼」のテン場なんて利用する登山者は珍しいし、下山してからSNSで持ち主を探す事も比較的楽かも知れない。
なにより…金額的には決して安いものじゃ無い事ぐらいは拙者でも分かる。
このテン場の事は知られていないし、他の登山者に回収される期待も薄い。下手したら…このままひと冬越すかも知れない。
ザックに合羽一式をしまうと水汲みに出掛けた。
テン場の奥の草地にハッキリとした踏み跡がある。それに沿って30m程行くと浅い沢形に出くわす。その左手(山側)に伏流水の流れ出しがある。
雪渓の消えた渇水期は降雨が無ければ一週間ぐらいで涸れてしまうので、いつも利用出来るというワケでは無い。
もし水場が涸れていたら、踏み跡をそのまま崖垂(三川台台地の縁の断崖)目掛けて20分程進むと、雪渓に辿り着くので融水を得る事が可能だ。
それが面倒くさく煮沸の用意があるなら、沼まで下りて行けば良い。小さな溜まり水だし、鹿や狐や羆との共用だが、登り返す労力は要らない。

地中のフィルターを通り抜けた伏流水だし、湧き出し口の直ぐ近くだし、喉も渇いていたので…そのままシェラカップで掬って喉に流し込む。
さっきまで飲んでいた下界の水道水とは違って、甘みのある美味い水で今更ながら感動する。
この水場を見つけたのは偶然だったが、この水場を知る人は意外に少ない。
古い旺文社の地図にもテン場と水場を表すマークが付いているが、多くの登山者は「三川台 」の分岐(扇沼山から俵真布林道へのルートがある)近くに幕営しルートから外れた水場の事は知らない人が多いようだ。
晴れていれば「黄金が原」辺りから、この素敵なテン場は見えるし気付く人は多い筈だが、思ったより宿泊者は少なそうだ。
指定されたテン場では無いし、計画段階で此処を計算に入れない日程を組むからなのだろうが、「南沼」なんかより何倍も素敵で安全快適なテン場なのに…な。

水場をあとに「三川台」から「黄金が原」へ。
今日も日差しが強く裸眼だと眩しいのでサングラスを…と思ったが、何処を探しても見つからなかった。
恐らく…昨晩泊まったテン場だろう。テン場に着くまで、ずっとサングラスはしたままだった。
一瞬取りに戻ろうかと思ったが、引き返すには遅すぎた。
もう3時間以上進んで来てしまったノダ。
3時間掛けて戻って、また3時間歩くと、それだけで1日が終わってしまう。
そんなに高価なサングラスては無いが、「ヒート・ホーク」という名の同じサングラスを今迄…藪漕ぎやゴルジュ泳ぎの際に4個ほど無くしていた。
裸眼では眩しいが、仕方ない…このまま行こう。
サングラスも回収に行かなきゃいけないかぁ。
来年も同じコースは面白く無いしなぁ。

このルートは溶岩台地と思われる平坦な草原が見渡す限り広がっていて、大好きな場所の一つだ。
右手には「ユウトムラウシ花園」の見事な眺め。
昔、この辺りで羆ちゃんを探して日がな一日、双眼鏡を覗いていた事もあった。
確かに「黄金が原」は見通しが良く、羆ちゃんを探しやすい地形ではあるが、無闇に姿を晒す事を嫌う羆が、明るい日中にこんな場所をウロウロしている事は滅多に無い事だ。と、その頃は、そんな基本的な知識すらなかったのだが、遭遇した何度かの経験から大雪山系の羆については傾向が分かってきた。
羆ちゃんに遭うには、早朝夕方・ガス・雨降りが三大条件だろう。
更に、「餌場に付く」という雌の習性を知れば、出没するポイントも限定されるノダ。
つまり、遭いたくないヒトは、そういう日にはウロウロしないほうが無難だ。

「黄金が原」から小高い丘に上がって縦走路を進むと右手に「南沼」が現れる。
ルートは沼の脇を急峻に駆け上がって「トムラウシ」へ向かっている。
一見すると、なんて事の無い斜面だが、此処を詰めるのにデカザックを背負ってだと30分近く掛かる。
「トムラウシ」の岩峰を乗せた古い時代の台地縁の崩落崖と思われる斜面は、細かいジグを切りながら一気に100m近い崖斜面を攀じるノダ。
地形的なキツさと共に、この斜面を上がれば其処には「南沼野営指定地」のテン場があり、安心し油断したトコロに最後の「心臓破りの急坂」が待ち受け縦走登山者に精神的ダメージを与えるノダ。

途中、何回か休憩しながらアト10m程で斜面を抜ける…というトコロで、岩の上にチョコンと置かれた誰かの忘れ物のサングラスを見つけた。
今迄眩しさを我慢し続けていたので、渡りに船とばかりに落とし物のサングラスを掛けてみた。
しかし…どう見てもお買い得¥980か、ヘタしたら¥498の可能性すらある安っぽいサングラスで、マトモに紫外線を防いでくれそうには見えなかった。
仕方ない、コイツもゴミになるだけだから回収して行こう。
なんだか、回収してばかりだな、今回は。

「南沼野営指定地」に到着したが、テントは一張りも無く閑散としていた。
分岐道標の側の大きな平たい岩の上にザックを投げ出して、昼食代わりの補給をし「トムラウシ」を見上げる。
さて、久し振りに「南沼」のテン場に来たが、やたらと縄張りがしてあって風情も何もあったもんじゃ無いし、好んで泊まりたいとは思わないテン場である。
それはそうと、「よしっ、此処まで来たらトムラウシに登ろう」と思う気持ちが1mmも起きないのは、一体全体どうした事だろう。
空身でピストンすれば小1時間も掛からないし、今なら誰もピークに居ないし独り占めだ。
でも、気持ちは動かなかった。
「死ぬまでに一度は」と「トムラウシ」に憧れている方々には悪いが、もう…飽きてしまっているノダ(言っちゃったぁ)。
そりゃあ、いくら絶景でも100回(大雪山総滞在日数はそんぐらいかな?)も見れば誰でも飽きるだろ。

「南沼野営指定地」をあとに、岩峰の裾の巻き道(迂回路)を「北沼」へ向かう。
「北沼」は深い群青色の水を湛えていて、「南沼」とは趣を異にする。
水量は渇水期である9月でも多く、春先の雪溶けの頃には東側に流れ出すのだろう。
その流れ出すポイントには、風避けの石組みが積まれていて、ビバーク地として永年利用されていたが、現在は石組みも崩され裸地も無くなっている。
数年前、此処に疲労凍死したオロクさん(遭難遺体)が転がっていたというし、あの「トムラウシ大量遭難」でも、「北沼」で3名が亡くなっている。
そんなハナシを聞いたら、「北沼」で泊まる気も失せてしまうのが普通だろう。
ただでさえ、事故後1ヶ月経たぬ生々しい現場(線香が供えられていた)を見てしまった身としては、、拙者は遠慮したい。

「北沼」から小高い丘を越え、荒涼とした台地を進むと「ロック・ガーデン」と呼ばれるガレ場斜面に出くわす。
此処に来たのも久し振りだ。
一昨年も直ぐ近くまで来たが、そのまま「クワウンナイ源頭」に向かってしまったので、下手をしたら10年振りぐらいかも知れない。
初めてのヒトは、見た事も無い巨大さにビビってしまうぐらいに、桁外れの規模に感動すら覚えるだろう。
何tもあるような安山岩の巨岩が複雑に重なり合い、一体何処にルートが切られているのか…一見すると迷路のように見えるかも知れない。
ガスると簡単にルートをロストしてしまうのは事実だし、一歩足を踏み外せば「痛い」だけでは済まないダメージを負う危険性もある。
岩肌にペンキで描かれたルートを示すマーキングも、永年の風雨にかすれて消えかけているし、微かに判別出来る岩肌の踏み跡のこすれは、雨が降り濡れると簡単に見えなくなってしまう。
上りも下りも、かなりナーバスにならざるを得ない。
ルートは北側(下)から見上げた場合、右上部の灌木が茂る沢形を目指すと良い。
下りはガレ場の右手、ガレが途切れた砂礫地と、その先に見えるルートを目標にすれば良い。
ルート自体はガレ場を浅い角度で斜行しているので、トラバース移動が大半を占める。
こんな…難所のロック・ガーデンだが、空身で遊ぶには…こんなに面白い場所は無い。
ナキウサギちゃんをビックリさせながら、ルートを外れてピョンピョン跳びながら東側に出ると「ニペソツ」の男前な尊顔を拝する事が出来る。

「ロック・ガーデン」を下ると右手の岩峰の裏に気になる雪渓を見つけた。ちょいと寄り道して偵察してみる。
雪渓の向こうに緑色が鮮やかな平らな草地が見えた。
雪渓から水も採れるし、ルートから外れて人目にもつかない素敵なテン場のように見えたが、雪渓と草地の50m程間に巨岩帯があって突破に苦労しそうだった。
でも、あれは…「クワウンナイ源頭」に下るコル(鞍部)反対側のようだ。
…とすれば、縦走路からは丸見えになっちゃうんだろうな。
ここは当初の予定通りに「クワウンナイ源頭」のテン場に向かう事にしよう。

「ロック・ガーデン」を抜けて最初の鞍部が「クワウンナイ源頭」への入口だ。
縦走路を外れて薄い踏み跡を頼りに西側に下降して行く。
踏み跡は谷間のガレ帯を避けて、左手の高山植物帯の中に続いている。
前回はガレ帯をルーファイしながら進んで難儀したが、何十年も使われている踏み跡がハッキリと残っているのだ。
ものの10分程で名前も無い源流沼に辿り着いた。
前回泊まった源頭のテン場までは、まだ小1時間掛かるが、此処もなかなか素敵なテン場だ。
ちょいと縦走路から近い為に、他の登山者から見えるかも知れないが、時間的にこの場所を登山者が通る可能性は低い。みんな、そろそろ…それぞれの泊地に辿り着く時間帯だ。
源頭テン場まで下降するのも面倒くさいので、今回は此処に幕営する事にしよう。
沼の畔の草地の上にテントを張り、寝袋を日干ししながらゴロンと横になる。
沼の対岸のガレ場に棲むナキウサギが見慣れぬ人間を偵察しに出てきて、拙者と目が合い慌てて警戒音を出しながら巣穴に飛び込んだ。

つづく。

【写真1】心臓破りを登りながら見下ろす南沼
【写真2】ロック・ガーデン上部から化雲方面を見下ろす(遠くのピークはポン化雲)
【写真3】源流沼のほとり、なまら楽園でしょー



草地の上にテントを設営すると、とりあえず…マーキングをしておく事にする。
「正しいビバークの方法」というのがあるか知らないが、永年…山泊や野宿をしてきた拙者が、北海道に於ける山中ビバーク時の羆対策の方法として「匂い」を使う事になった経緯は、長年の経験から「ヒトの匂いが強く残っている場所には羆の出没の痕跡は少ない」と気付いた事に始まる。
例えば…十勝大雪山系ではトイレ設備の無い指定野営地(美瑛富士、南沼、沼の原、裏旭、ブヨ沢…)等では、長年登山者は排尿排便を自然界の循環サイクルに頼ってきた(その辺にしちゃう事ね)。
すると、テン場の周りは人間の尿便の匂いが染み付く事になる。
そういう場所では、羆の痕跡を見る事は珍しい。
拙者が以前良く利用していた「二つ沼」(ユウトムラウシ花園)のテン場も、テントサイトを少し離れた草むらでは、糞や寝床の痕跡は見かけるが、テン場の周りだけには痕跡が全く見当たらない。
それは、他の野営指定地でも同じで、一昨年訪れた「クワウンナイ沢源頭」の…沢ヤ以外は一般登山者は寄り付かないテン場ですらも、羆の痕跡は探しても見つからなかった。

動物界に於いて、尿の匂いは…テリトリーの主張や繁殖相手の発情期を知らせたり、様々な意味を持つ。
毎朝近所を散歩している犬が電信柱の匂いを嗅いで、自分もオシッコしてるのは、自分のテリトリーに知らない犬が入って来ていないかパトロールし、そこが自分の縄張りだと主張する為だ。
人間の尿の匂いも、譬え本人達にその認識が無くとも、無意識に自然界に於ける【縄張りの主張】をしていたという事だ。

登山界では一般化した「熊鈴」の効果については、昔…某質問サイトで議論した事があり、「効果無し」と断言する者の主張は「熊鈴を鳴らしていて遭遇した」(本人では無く知人が)という一事案が根拠らしく、「不可逆的な検証が不可能」(事案を再現し法則性を見いだす事が出来無い)だという反論にも、なんら論理的な回答を得られなかった。
熊鈴の効果で遭遇しなかった事は、事実上証明する事は不可能なので(羆に訊くしか無いもん)、一事案のみを見て仮説を一般化するのは余りにも乱暴な意見だ。

かく言う拙者も昔、熊鈴を鳴らしていながら羆と30mの近接遭遇をした事がある。
台風通過後の「高根が原」で、曇天ながら見通しの良い平坦な地形で、その距離まで気付かなかった(お互いに)。
その日は、未だ台風の風も残っていて、風の音で鈴が聞こえなかった可能性は高い。
更に、流石の羆も台風通過時は風雨を避け藪の中に隠れ、3日振りに食餌をしに出てきたので、腹ペコでご飯に夢中だった可能性もある。
その一事案を殊更に取り上げ、「熊鈴は効果が無い」と断言するのは浅はかだし、想像力や考察力が足らさ過ぎる。
熊鈴が聞こえなかった様々な可能性について考え、【音】以外の方法で人間の存在を羆に確実に知らせ、警戒を促す方法は無いものか?と色々考え続けた。

熊鈴は曇りか晴天時、更に無風で藪を掻き回す高周波の雑音が無く、羆がある程度…人間に対して警戒心を抱いて、周囲を警戒している状況であれば、かなりの確率で羆には認識されると思われる。
つまり、様々な条件が揃えば認識可能なのだろう。
条件の内の一つでも欠ければ、熊鈴は認識されない可能性は高くなる。
よって、結論として…熊鈴は有効ではあるが、場合によっては相手に伝わらない可能性もある事を考慮して使用すべきである。
一番怖いのは、熊鈴を鳴らしてる事で安心して、自ら警戒する事を忘れてしまう事だ。

拙者は、個人的にあの…チリンチリン♪って音が苦手なので、【笛】と【拍手】や【声】という音を使っている。
時には、ストックを打ち鳴らしたりもする。
羆の痕跡を見たり、見通しの利かないハイマツ帯等では必要に応じて、音を鳴らす事にしている。

では、音を注意喚起の方法として使えない時、或いは今回のようなビバーク時に於いて、人間の存在を知らせる方法を考えると【匂い】というのは、かなり有効な手段になる。
例えば、拙者は…最近ではお前等に人権は無いと言われてる、迫害著しい喫煙者ではあるが、このタバコの匂い(煙)というのは、昔聞いたハナシでは何kmも届くというのだ(ゲリラ戦のプロ 陸軍特殊部隊グリーンベレーの隊員の手記だったかな)。
人間の何百万倍もの嗅覚を持つと言われる羆ならば、更に敏感に探知出来るのかも知れない。
だから、藪漕ぎが始まる前やハイマツ帯を通過する前、ビバーク地を決めて設営してから、立て続けに何本か煙草を吸って匂いを拡散させる。
従って、拙者はイヤイヤながら、ファシスト達による迫害を受けつつも仕方なく煙草を吸い続けているノダ。
勿論、先述した「尿」の匂いも人間の存在を知らせるには有効だろう。

マーキングも闇雲にすれば良いというワケでも無い。
羆が通りそうな場所にしなくては意味が無い。
この場所の場合、源頭から詰め上がって来た羆は、コルをめがけ斜面を上る筈だから、下方の回廊のような草むらがポイントだ。
何故、羆の動き方が分かるのだ?と疑問に思う方も居られよう。拙者が羆なら、そのルートでコルを目指すからだ。
羆だって濃いハイマツの藪より、歩き易い草むらを選ぶ筈だし、山を無積雪期にバリエーションで歩くと、羆だろうが鹿だろうが人間だろうが、自ずと歩くべき道程が見えてくるものだ。

草むらには一部が踏み倒された古い踏み跡はあるが、人間なのか羆なのか鹿なのかの判別は出来なかった。
草むらの続きは浅い沢形に繋がっており、もしかしたら…源頭部で水が採れるかも知れない。
こんな理想的なテン場を先達の岳人たちが利用しなかったワケが無く、鞍部(コル)から浸食地形を辿って下降し水を得ていたかも知れない。
この踏み跡だって、もしかしたら…沢ヤが縦走路への詰めに利用したものかも知れない。
普段なら好奇心を抑えられずに躊躇なく偵察に向かうのだが、つい登り返しの事を考えてしまったのは、かなり…ヤラレとる証拠だった。
今日は止めておこう。
長靴を脱いで、テントに潜り込んでゴロリと寝転がった。
テントの入口から、遠くの山々が霞の向こうに見える。
方角的には東大雪方面になるが、余り高い山では無いから、「東・西ヌプカ」辺りだろうか…
手前には少し開けた地形に緑が広がっているのは、「新得」辺りの牧場だろうか。
このテントの入口から、借景として様々な景色を見て来たが、此処もなかなか素敵な借景だ。
しかし、歴代NO.1は…やはりアソコだろうな。
今回も立ち寄る予定だが、悪天候なら…今シーズン新装開店した「ヒサゴ小屋」に入らざるを得ない(それも魅力♪)。
日陰になったテント内は20℃そこそこの気温で、ゴロゴロしている分にはマコトに居心地が良い。
消耗していたせいもあり、そのまま昼寝してしまい、目が覚めると薄暮の頃だった。
日没後の徐々に暗くなっていく時間帯を「マジック・アワー」などと呼ぶが、夜行性では無く、暗視眼を持たないホモサピエンスには夜の暗闇は、天敵から襲われても事前に察知しようが無い恐怖と緊張の時間の始まりだ。
一人で初めて山で泊まった時は、緊張で殆ど眠れないまま朝を迎えた。
夜の森は得体の知れない動物の気配で満たされていて、いつ襲われるか…と身を堅くして寝袋にくるまっていた。
今でも、基本的に…山で泊まる場合は、緊張を解く事は無い。
いくらゴクゴクしようが、ゴロゴロしようが、カラダの奥の芯の部分は張り詰めた何かを保ち続けているノダ。

夕食は簡単に済ませ、バーボンを飲みながら星空を見上げてゴロゴロしていた(昼寝したから眠くないんだもん)。
大雪山系の最深部に独りで居る…この感覚は格別だ。
雪山とも沢登りとも違う、独特な孤独感と、世界と乖離した隔絶感、それでいて自然の一部に取り込まれるような融合感。
そして、緊張感。
意識せずとも集中力が何時間も持続し、五感は鋭くなり、研ぎ澄まされていく感じ。
この【ZONE】に入った時の高揚感というか陶酔感は堪らない。
恐らく…脳から、なんちゃらと言うホルモンが分泌されとるに違いない。
VRやゲームでは決して味わえない…この感覚。
もしかしたら、この感覚を味わいたくて「大雪山」へ通い続けているのかも知れない。

翌朝、目が覚めるとスッカリ夜が明け明るくなっていた。
残り少ない水でコーヒーを沸かし、のんびりする。
縦走路で誰かとすれ違えば「二つ沼」(三川台)の水場の情報を尋ねたかったが、「オプタテ」以来、登山者の姿は見ていない。
「二つ沼」の次の水場は、「南沼」か「北沼」の溜まり水になる。
今日も暑くなりそうだから、なるべく汗をかかないよう、ゆっくり進もう。
天幕を撤収し縦走路に復帰し、「ツリガネ山」へ向かう。
この先、名も無い小ピークを幾つか越えて、「ツリガネ」を下れば、「ユウトムラウシ花園」と呼ばれる馬蹄形のカール状地形の崩落した火口縁跡から、「三川台」に向かって火山礫の稜線を詰める事になる。
この「ユウトムラウシ花園」の窪地は、嘗ての爆裂火口跡だろう。
「トムラウシ」が火山隆起する以前の古い火口跡だろうと思われる。
歩き始めて暫くすると軽装の若者とすれ違った。
40L程のザックに、足元はトレランシューズだ。
聞けば、今朝…「ヒサゴ小屋」を出て、今夜は「美瑛小屋」に入るという。
どう見ても「二つ沼」には立ち寄ってなさそうなので、水場情報は尋ねずに見送った。
「ツリガネ山」(地図上のピークは通過しない)を越えると、登山道に鎖が設置されている急登を下る。
ハイマツトンネル内の雨水路のような凹地なので、ルート脇のハイマツや笹を手掛かりに下る。
やっと、昨日来の稜線から脱出し、ナナカマドとハンノキの樹林帯を進むと、前方に気配を感じ目を凝らすと此方に向かって来る2名の登山者が見えた。
樹林帯を抜けた砂礫広場で一服してると件の2名が現れた。
手拭いを頭に巻いた小太り短躯なオジサンと、関西弁バリバリの細身のオバサン。まるで漫才師コンビのようだ。
昨夜は「南沼」のテン場だったそうで、今日は「双子池」まで行くらしく、この先の水場は涸れている事を教える。
「それなら、早く下りてもいいじゃん?」
「そんなん勿体無いやん。せっかく来たんやからぁ」
なかなか良いコンビのようだ。
2人と別れ「三川台」への砂礫尾根を上がる。
日差しが強く、昨日に引き続きペースは上がらない。
「しかし…登山って、こんなにキツいもんだったんだなぁ。」
心の声がつい洩れてしまう。
自分が普段やっている山行は、厳密には登山という一般概念からは逸脱しているのかも知れない。
雪山にしろ沢登りにしろ、キノコや山菜、地形探索という名のバリエーションも、一般的な登山の概念からはかけ離れている。
一番の違いは、何も考えなくて良い、という事だ。
整備された登山道を歩くのに、特別な技術や知識や観察眼や思慮は必要無い。
ちょっとした体力と装備があれば十分だ。
こうして大雪山の最深部を一人歩いていても、気分は「円山」や「藻岩山」と大して変わらない。
アタマを使う機会は殆ど無いからだ。
行程の殆どは退屈で暇な時間が占めている。
頭脳をフル回転させている普段の山行とは、余りにも違い過ぎるノダ。
かと言って、面白くないというワケでは無く、日常では味わえない景観にココロは踊っている。
ただ「別物」という感じが拭えないノダ。

見上げると「三川台」の台地が近付いて来た。
登山道脇の目立たない踏み跡を右手に逸れて、「二つ沼」のテン場に下りて湧き水を補給しよう。
久し振りにこのテン場に来たが、裸地のテン場は以前に比べて雨に浸食され少し荒れている。
ザックを下ろし、プラティパスとシェラカップを持って水場に向かおうと思ったら、視界の端に青いものが見えた。

つづく。

【写真1】素敵なビバーク地
【写真2】トムラウシもちょこっと見えるよん
【写真3】昼寝して目覚めたら薄暮だった