●「悪名の棺・笹川良一伝」

 佐川が「偉大な人」と尊敬した笹川良一の立志伝は、ドラマチックな昭和の歴史物語である。
 昭和六年、緊迫するアジア情勢を睨んだ笹川は、右翼団体・国粋大衆党を結成。総裁に就任する。この団体には自由民主党の設立に際し資金を提供した児玉誉士夫も在籍したが、後の海軍物資調達機関である「児玉機関」(上海)は、笹川の口添えによって作られただけに、当時の児玉は、笹川の前では直立不動の姿勢を崩さなかった。
 また昭和七年、満州国が建国されると、「ラストエンペラー」で有名な皇帝、愛新覚羅溥儀との会見に成功するなど大陸での知名度を広げ、東洋のマタ・ハリと呼ばれた関東軍のスパイ「川島芳子」を匿いながら「男装の麗人」を巧みに使いこなしていたのである。これらは「悪名の棺・笹川良一伝」に詳しいのでご一読をお勧めする(幻冬社・工藤美代子著)。
 同じ時期、清朝復辟、宣統帝溥儀に関する面白い話がある。
昭和六年九月、川島浪速と芳子は亀岡に出口王仁三郎を尋ねた。「神示によれば宣統帝、日本へひとまずご来朝ある方、完成するとのこと」「いよいよこちらへお迎えすること確定すれば、さらに準備を云々」など密談(筆談)の様子が講談社「巨人・出口王仁三郎」出口京太郎著に記載されている。
 国家弾圧で実現はしなかったが、大本の「天恩郷」に宣統帝を迎えるための「高天閣」が建てられたほどである。
 王仁三郎は「満州民衆の総意に応えて溥儀が皇帝の位につくという形で、大三者の策某的な介入はいっさい排除しなくてはならぬ。」と尽力を尽くし、政府、軍部に睨まれながらも満州に建国する新しい国名は「高麗国」に決めてあったというから気宇壮大な新アジア構想だった。
 笹川はその意を汲んでいたとみる。後年、「あなたの爺様は偉かった」と出口京太郎氏に語っている。

●戦中東条英機と対決。獄中で激励! 

 笹川は米英開戦に反対だった。
山本五十六と呼応しながら東条英機を戒め、翼賛選挙で代議士に当選すると東条首相と対決した。にもかかわらずA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されたのはなぜか?
「巣鴨は人生最高の大学である」笹川は獄中にもかかわらず意気軒昂だった。
 火箸で叩かれる子供時代よりも監獄生活のほうがよほど待遇が良かったのだと拝察するが、繰り返された連合軍非難の演説は「A級戦犯合格への売名行為」だったと非難するマスコミ記事も多く出た。
 ウキペディアによると「戦争中に戦犯指定を受けるほどの活動はしていないが、『太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁くことは不当であり、アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない』と主張。また『アジアに植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである』というのが笹川の立場であった。そのため連合国批判を繰り返し、1945年(昭和20年)12月11日、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監された」とある。
 堂々と意見を主張できる骨太の国士であった。
 比べて、東条英機など落ち武者のごとき哀れさが漂っていた。東京裁判では大川周明に後ろから頭をペタンと叩かれ、ウツロな顔で頭を撫でていたが、笹川は巣鴨で東条を激励し「陛下に戦争責任が及ぶことなきよう」国体護持に全精力を傾けた。A級戦犯なればこそ出来た説得である。

●笹川良一没後二十年

 やがて巣鴨から釈放されると(昭和二三年)持ち前のバイタリティで、現在の日本財団(笹川陽平会長)の前身である日本船舶振興会を立ち上げる。
 昭和二七年に社団法人全国モーターボート競争会連合会(全モ連)の設立に関与し、昭和三〇年に同連合会の会長に就任するが、この年に自由民主党が結党された。
(余談ながら現在の自民党総裁は岸信介の外孫、安倍晋三首相である)
 その後、笹川は「世界一家・人類みな兄弟」「一日一善」の標語にあるように世界を又に駆けて活躍。ハンセン病の撲滅活動から、アメリカのカーター元大統領など世界の要人たちとの国際交流、親睦の輪の広がりは驚くべきものがあった。
 その膨大な記録映像は、佐川がスポンサーとなってTBC山本(作曲家・山本丈晴社長・渋谷本社)が残してきたが、往時の笹川に同行していた同社ディレクター永淵氏は「会長は、朝は誰よりも早く。またスケジュールは分刻み、おまけに常に駆け足なので、撮影する我々は着いてゆくのが精一杯だった」と述懐している。
 同じく笹川の主治医であった聖路加国際病院の日野原重明先生も、驚くべき健康体だと太鼓判を押していたが、生涯数度の獄中生活を送るなど辛酸を舐めた時代も長かった。
 そんな笹川の心構えを、三男である陽平氏は、ブログでこう記した。
「笹川良一は『良い時には悪くなった時のことを考えなさい。今、悪ければ希望を持ってどうしたら良くなるかを考えなさい』と仰っていた」と。
 しかし「我が寿命二百歳」と公言していた笹川翁も一九九五年(平成七年)七月十八日、満九六歳で天寿をまっとうする。数えてみれば今年は笹川良一没後二十年である。
 私にとって稀代の人物だった笹川の死は、今もって惜しい人だったという万感の想いが強い。


(続く)









 佐川清と李香蘭(山口 淑子(やまぐち よしこ)

山口 淑子(1920年2月12日 - 2014年9月7日)は、日本の歌手、女優、政治家。戸籍名:大鷹淑子(旧姓:山口)。戦前の中国(中華民國)と満州國、日本、そして戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン、Lee Hsiang Lan)、戦後の米国ではShirley Yamaguchiの名で映画、歌などで活躍した。終戦を上海で迎えた彼女は、漢奸(中国人として祖国を裏切った)容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。
帰国後は、旧姓(当時の本名)・山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をしたが、1958年(昭和33年)に結婚のため芸能界を退いた。そして1969年(昭和44年)にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年(昭和49年)3月まで務めた。後に1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間は、参議院議員をも務めた。2006年に日本チャップリン協会(大野裕之会長)の名誉顧問に就いた。
2014年9月7日、心不全のため東京都千代田区一番町の自宅で死去した[1]。満94歳。叙正四位。