伝説の人 佐川清


 これぞ男の生きる道





 大震災と同日、三月十一日が命日



もはや伝説の人となった佐川清。

いわずと知れた佐川急便の創業者である。

佐川急便は昭和32年に京都駅前で創業し、そこから数々の伝説が生まれた。

おそらく京都ゆえに伝説の人物に成れたのだと私は思っている。明治維新以後、革命家はいつも京都に潜んでいる。全ては歴史の産物なのである。

 さて彼に与えられた称号は、運輸業界の革命児、急成長企業佐川の帝王、ドライバー高給神話、比叡山東塔再建の恩人など小気味の良いものから始まり、暴走違反の飛脚軍団、ワンマン独裁・年俸六億日本一のタニマチのカネと女と暴力装置、田中角栄から細川政権まで政界を揺さぶる影のフィクサーなどなど悪名一代のレッテルを含めると枚挙にいとまがない。

 しかしながら古今東西この日本で功なり名を遂げた御仁でこれほど多くの謎に満ちた伝説を残した経営者は稀であろうと思う。

 そんな破天荒一代の生涯をまっとうした佐川清の13回忌はまもなく(2002年3月11日死去)執り行われるが、奇しくも東日本大震災と同日であったことは、まさに竜神伝説の再来と呼ばれた男に相応しいのかもしれない。




 佐川清の呪縛


 佐川清のお墓は滋賀県下西方の山の頂きに広がる「比叡山延暦寺大霊園」にある。

 ここは、はるか琵琶湖を一望できる絶景の場所であり、昭和55年に建立された巨大な「佐川急便物故者慰霊塔」に並んで建てられた佐川家先祖累代の墓である。

 今年の13回忌には数多くのお参りとともに報道陣や政治家も多数押し寄せることだろう。さもなくば佐川の呪縛から解き放たれることができないからだ。



さて















佐川の呪縛とは何か、

若い方々はすでに風化した「佐川事件」などご存知ないだろうが、91年に政界に大騒乱を巻き起こした東京佐川事件は、バブル経済の崩壊とともに拝金主義に毒された日本社会の膿が一気に噴出した事件だった。当時発覚した稲川会系企業への債務保証(東京佐川)は五千億円、その全ての弁済を佐川が背負うことになった。



十字架に磔にされた佐川清



 しかもどさくさに紛れて読売新聞の所有する大阪の土地売却代金が不当に高値であったことに不信感を持った佐川清が(報告を受けた金額と50億円の差があった)その一件をTBSの「報道特集」のインタビューで話をした事がきっかけとなり佐川事件は政界だけでなく「読売」VS「TBS」へと波及、報道マスコミ世界の大戦争に発展するなど日本社会の混乱は連鎖反応のごとく続き、これに業を煮やした読売の渡辺オーナーは激怒し最後はTBSが謝罪する形で治まった。

 しかし、佐川清の発言が自らを絶望的な窮地へと追い詰められることになろうとは、思いもよらなかったのではあるまいか。佐川マネーの存在が明らかになるにつれ自民党は離党者が相次ぎ党の存続そのものが危うくなった。党幹部は焦った。

 自民党は極秘に対策を練っただろう、佐川の取引銀行はじめマスコミに君臨する読売新聞との連携を強め佐川清追討の陣構えで挑んだのだ。

 マスコミは竹下ホメ殺し問題の首謀者を佐川と決めつけ苛烈な報道を繰り返しながら、佐川社内の内乱、裏切りを勧めた。その効果は覿面に表れた。四面楚歌となった佐川は、あえて「国会の証人喚問ですべてを話す」と敵意をむき出したために、連合軍最後の切り札が切られた。それは刺客となった銀行団からの最後通告「融資の検討。打ち切り」であった。この時佐川は「五千億か五年で返済できる」と強気の返答はしたものの世論の総攻撃によって荷主の相次ぐ「佐川との取引禁止」によって売り上げは二割ダウンという壊滅的な打撃は経営を大きく圧迫し、会社は存亡の危機となる(この頃、佐川グループ全体の一日の利息支払いは3億円だった)さすがにこれは堪えた、孤軍奮闘も空しく重い十字架を背負った佐川は金沢へと幽閉され「逮捕に怯え雪国に身を隠す佐川清会長の憂鬱」(朝日ジャーナル)という捏造記事を最後に、その姿は消し去られた。

 まさしく言論による磔の刑によって抹殺されたのである。






余談ながら「特定秘密保護法案」が日本社会を脅かす日はちかいだろう

あの当時成立していなくて良かったもんだ。