故・近衛通隆氏とは東大ゴルフ部OB鈴木さんの紹介で
虎ノ門にある旧霞山会館の応接間にてお会いしたのだが、
当時(2002年3月)79歳とは思えない
スッと背が高く、背筋がピンと伸びて実にダンディな方だった。
さすがだなと見惚れていると
すかさず
「甥っ子がずいぶんお世話になりました」
と
(うん?甥っ子さん)
ああそうだ細川元総理のことだと改めて頷いた
のであった。
そしてしばし雑談中
「実は近江神宮のことで佐川さんにお願いしたきことが
あったのですが、残念です」
と打ち明けられた。
(近衛先生は近江神宮の確か相談役だったようです)
そうか近江神宮といえば滋賀県である(大津)
天智天皇をお祭りし日本で初めて水時計(漏刻 )を設置した
歴史と由緒ある神宮だ。
「時は金なり」
佐川にとっては大事なお社ではあるまいか!!!
近江神宮HPより
そして近衛家といえば悲劇の宰相近衛文麿元総理
はじめ近衛文隆氏(ロシアにて死去)
また東亜同文会など中国との関係も忘れてはならない。
(日中関係がこじれている今ですからね)
以前、紹介した近衛忠大氏の著作
「近衛家の太平洋戦争」に詳しいので
一読をお勧めする次第です。
近衛 通隆(このえ みちたか)
1922年(大正11年)5月11日 - 2012年(平成24年)2月11日)は、日本の歴史学者。
人物 [編集]
近衛文麿の次男で近衛文隆の弟。近衛忠煇の叔父にあたる。東京大学史料編纂所教授、霞山会、児玉文庫再興委員会会長、陽明文庫理事長を歴任。
父である近衛文麿に関する証言を、インタビュー等で度々行っている。その一つに、青酸カリによる服毒自殺を図る前日鉛筆で記した、「自分は多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない」と書かれたメモを受け取った。「明日、巣鴨に出頭してくれますか」と問うと、返答はなく、ただ激しい不快の表情であったという。
東京大学文学部教授在職中にはゴルフ部部長を務め、自らも関東アマチュアゴルフ選手権チャンピオンでもあった[1]。そのこともあり、日本学生ゴルフ連盟名誉会長も務めていた。
2012年(平成24年)2月11日に急性心不全で死去[2]。89歳没。
(ウキペディア)
東亜同文会と霞山倶楽部
一般財団法人霞山会の前身である「東亜同文会」(会長 近衞篤麿公爵・貴族院議長)は、明治31(1898)年11月に「東亜の保全と輯協」を目的として発足した。
当時、西欧列強の東漸により、中国は無惨に蚕食されて国家累卵の危機にあり、わが国を含む東アジア全体はきわめて緊迫した状況下にあった。このような情勢のもとに、中国の保全と清国の覚醒および改革を期する運動が日清両国に起こった。日本での東亜同文会等の活動、中国における康有為等の清国改革運動、孫文等の滅清革命運動等がそれである。
東亜同文会の創設時の綱領には、「支那を保全す。支那及朝鮮の改善を助成す。支那及朝鮮の時事を討究し実行を期す。国論を喚起す」とある。近衞篤麿は同文会の機関誌『中外時論』誌上に、「東洋は東洋なり、東洋問題を処理するもの固と東洋人の責務に属す。(中略)偕に與に手を携えて東洋保全の事に従うこと敢て難しと為さず」と論じ、かねてよりの日清同盟論を公にして、東洋保全の体制確立を提唱した。
東亜同文会は当時の「支那を革命すべし」、または「清朝を援助し西欧列国の分割を妨げるべし」との両論を考慮し、中国における一党一派との特別の関係保持を避けることを会の不文律とした。このため当初支援をおこなった孫文等の革命運動、康有為等の清朝復辟運動等から次第に距離を置き、後には同会として直接接触はしなくなった。
かくして東亜同文会は政治活動から離れ、会務の重点をもっぱら教育・文化活動に置き、日中両国学生に対する教育、中国に関する調査・研究・出版、中国についての知識普及・啓蒙活動等の事業に努力を傾注した。