昨今、政界人の「怠慢」「気の緩み」「驕り高ぶり」「その言動の無能さと無礼ぶり」に強い憤りを覚える。
なぜ、これほどまでに堕落したのか?その根源は平成3年の東京佐川事件をうやむやにしたことだ。
「事件の政界ルートの真相追及はなされぬまま終わった。」ことで政治家の皆さん「国民はおとなしく騙されやすい」とタカをくくり安心しているのである。
東京佐川急便事件の社会的影響
(ウキペディア)
この事件は1988年 のリクルート事件 などとともに政界にも多大な影響を与えた。
自民党・社会党双方に対し疑惑が持たれた重大事件であったにも拘らず、事の真相が一向に明らかにならなかったことから既成政党への批判の声が高まり、政治不信が深まった。
金丸の失脚により自民党経世会金丸直系だった小沢・羽田孜 ・渡部恒三 らは、経世会の内部抗争に敗れ「羽田グループ」(改革フォーラム21 )を旗揚げしたものの、梶山静六 の自民党幹事長 就任などにより党内非主流派に転落し、経世会を離脱し羽田派を結成した。
1993年 6月18日、社会党・公明党 ・民社党 ・社会民主連合 から宮沢内閣 不信任案が上程され、小沢・羽田・渡部のほか奥田敬和 ・石井一 ・藤井裕久 ・熊谷弘 ら羽田派を中心とする自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。これに対し宮沢内閣は日本国憲法第7条 第3号により衆議院を解散(嘘つき解散 )、第40回衆議院議員総選挙 が行われることになった。この機をとらえ、同年6月21日、武村正義 ・鳩山由紀夫 ・田中秀征 らユートピア政治研究会 に参加していた議員が自民党を離党し、政治改革などを掲げて新党さきがけ を結党した。
このことが羽田・小沢派の議員にも自民離党を決断させる一因となり、6月23日、羽田・小沢らは「政界再編」「政治改革」を呼号し新生党 を結成、小沢が代表幹事に就任した。
この動きに対し、宮沢内閣の官房長官 であった河野洋平 は6月23日夕方の定例記者会見にて、東京佐川急便事件の顛末を踏まえ「政治不信を招いたのは離党した人達ではないのか」と小沢らを厳しく批判、清和会 など他派閥幹部からも小沢らを批判する声が上がった。また評論家の立花隆 は6月24日付『朝日新聞 』朝刊に寄稿し、疑惑の渦中にあった当人である小沢が「政治改革」を掲げて新生党を結成したことについて「ちゃんちゃらおかしい」と酷評した。
しかし小沢・武村らと気脈を通じた細川護煕 (旧田中派 出身)率いる日本新党 が候補者を大量擁立し、新生党・新党さきがけに同調したことなどにより日本新党を中心とした「新党ブーム」が起こり、一部マスコミの扇動的な報道や、小沢の疑惑を追及しないとする意図的な情報操作[1] もあり世間の趨勢は「自民党が悪い」「政権交代を」という雰囲気に流れた。
結果、自民党は過半数を獲得できず野党に転落。また社会党は支援団体の連合 の方針転換(左派議員を支援しない)や上野建一 衆議院議員 の辞職(1992年3月、ゴルフ場開発会社からの不明朗な資金提供疑惑のため引責辞職。のち離党し新社会党 書記長)も重なり、55年体制 成立以来最低の70議席と惨敗。それに対し日本新党・新生党・新党さきがけが躍進、宮澤喜一 内閣は総辞職、8政党・会派連立による細川内閣 が成立し、ここに1955年 の鳩山一郎 内閣から38年の長きに渡り続いた55年体制 は幕を閉じた。
東京佐川急便事件を契機として55年体制は崩壊、政界再編は実現した形となったが、事件の渦中にあった小沢ら経世会出身者が中心勢力となった新生党が総選挙後細川内閣の主導権を握り、羽田、藤井ら同党議員5名が外務大臣 ・大蔵大臣 ・通商産業大臣 ・農林水産大臣 ・防衛庁長官 の重要閣僚ポストを得て入閣、さきがけは「隠れ竹下派」と言われた武村が内閣官房長官 、経世会出身の鳩山由紀夫が内閣官房副長官 となり、首相 の側近ポストを占めて首相官邸 を掌握、「政権交代」とはいうものの実際には旧田中派人脈に連なる政治家達が実権を握る政権となった。
また社会党は選挙敗北にも拘らず細川内閣の与党となり、連立与党中最多の6名の閣僚を送り出した。こうした情勢変化の結果、以後この事件の政界ルートの真相追及はなされぬまま終わった。