ナミビアの砂漠
監督/脚本:山中瑶子
製作:小西啓介、崔相基、前信介、國實瑞惠
撮影:米倉伸
編集:長瀬万里
音楽:渡邊琢磨
出演:河合優実、金子大地、寛一郎、新谷ゆづみ、中島歩、唐田えりか、渋谷采郁、澁谷麻美、倉田萌衣、伊島空、堀部圭亮、渡辺真起子
①一人の女性の生態を捉えるライブカメラ
21歳のカナ(河合優実)は不動産会社に務めるホンダ(寛一郎)と同棲中だが、映像クリエイターのハヤシ(金子大地)と浮気中。脱毛サロンで働きながら、特にやりたいこともないカナは毎日を無為に過ごしていましたが、ホンダと別れハヤシと同棲を始める頃から、少しずつ精神の平衡を崩していきます……。
タイトルになっている「ナミビアの砂漠」とは、ナミブ砂漠のライブカメラのこと。
砂漠の中にある管理された水飲み場に、野生動物が時々やって来る。その様子をただライブで配信している映像が、「中毒性がある」「なぜか癒される」と人気なのだそうです。
エンディングで流れるのがその実際の映像です。YouTubeで見ることができます。
↑ナミブ砂漠のリアルタイムが見られるライブカメラです。
劇中では、カナがこの映像を時々スマホで観ています。
カナは特に趣味を持たない、「映画なんか観て何になるの」と言っちゃうような人ですが。
数少ない「趣味」と言えることが、この映像を観ることなんですね。
趣味というか、限りなく「暇つぶし」という感じですが。
この映像が何を意味しているのか、何のメタファーなのか、劇中で語られることはないのですが。
本作は、映画そのものがそのまま「ナミブ砂漠のライブカメラ」のようです。
カナという人物のあるがままの「生態」を、演出を加えず、定点カメラのような無機質さで、ただ淡々と観察していく。
街の風景を固定で捉えた映像から、雑踏の中にまぎれるカナにおもむろにズームアップする導入部も、「定点観察」っぽさを醸し出しています。
あえてドラマチックさを排除した、カメラの揺れやぎこちないズームアップも同様です。
ライブカメラに偶然映る野生動物と同じくらいの距離感で、カナを見る。そういう映画です。
野生動物の生態が興味深いのと同じ位相でカナの生態も面白く、野生動物が美しいのと同じ位相でカナも美しい。そういう描き方。
ドラマ的な感情移入や感傷を廃した描写に徹することで、日本の都会で暮らす一人の若い女性の置かれている状況が、少しずつ客観的に見えてくる。そんな仕掛けになっています。
②普通の生活がもたらす「病み」
「あんのこと」から続けて、都市で生活する若い女性を演じる河合優実ですが。
不幸を煮詰めたような環境に生まれついた「あん」とは違って、カナはごく普通の背景を持つ、ごく普通の21歳の女性です。
中国と日本にルーツを持つ…というところは少し特異だけど、それが彼女の生活に大きな影響を与えている訳ではない。
脱毛サロンで働き、酒を飲み喫煙し、不動産業に務める彼氏と同棲し、かと思えば別のクリエイターの男と浮気し、落ち込んだ友達はホストクラブに連れて行き、頃合いを見て一人で帰る。特技は歩きながら日焼け止めを塗ることと、タクシーを一切汚さずに窓から吐くこと。
生活態度はだらしなく、特にやりたいこととか将来の夢もなく、趣味らしい趣味もなく、でもそれなりに楽しげに日々をだら〜っと暮らしている。
そんな普通な…普通よりは少々奔放ではあるけれど、特別ドラマチックな事情を抱えている訳でもないという意味で普通な、カナという女性。
美人でスタイルも良く、周囲の人はみんな優しく、友達との関係も良好で、仕事にも特に不満もなく、前の彼氏も新しい彼氏もどっちも優しく、何にもしなくても甲斐甲斐しく世話を焼いてくれて、料理も作ってくれて、着替えも手伝ってくれて、水まで飲ませてくれる。彼氏というよりまるで親。
彼氏の親も優しくて、鼻ピアスつけてても「似合うね」って言ってくれる。
特に何も起こらない、波風の立たない日々。
例えば「あん」が目に見える問題を山ほど抱えていたのに比べても、本当に何もない。平和な日々としか言いようがない。
……にもかかわらず、映画の後半でカナはだんだん病んでいき、ぼろぼろに壊れていってしまうのです。
それはいったいなぜなのか? 何がカナをそんなにまで追い詰め、病ませてしまったのか?…ということが謎になる。
淡々とした本作は実は、その謎を中心にしたミステリであるという見方も可能です。
謎解きは最後までされない。明確には描かれない。
なので、観客は映画が終わった後も、それをずっと考えることになります。
③私であってもおかしくなかった誰かの苦痛
映画の中で具体的に描かれるのは、ハヤシが過去に誰かを孕ませ、堕胎させたとカナが知ること。
「胎児の超音波写真」をずっと持ってるのも気持ち悪いですが。まあ、何となく捨てられなかった…というのは、わからないではない。
この事実はカナをキレさせ、ハヤシに対しての激しい暴力が止まらなくなるきっかけになっています。
「どのツラ下げてものづくりしてんの?」
「お前が作るものは世の中を悪くするだけだ」
というキツイ言葉。
実際に負い目を持つハヤシは何も言い返せず、せいぜい「だったらどうしろって言うんだ!」「お前には関係ないだろう!」と言うしかない。
この構図は、社会問題にもなった「性加害を行ったクリエイターがのうのうと作り続けることの是非」を連想させる訳ですが。
ただ、当事者ではないカナが勝手にキレてハヤシに当たり散らしてる構図は、理不尽ではあります。誰かが被害を訴えてる訳でもないし。
ましてや、カナは優しい彼氏を裏切って浮気して男を乗り換えたりしてるので。「どのツラ下げて」はブーメランのようにカナに返っていく。
ただ、映画全体からぼんやりと立ち上がってくるのは。
「どのツラ下げて」がブーメランで返ってくることまで含めた、カナをその中に含んだ社会構造そのものが、カナにとってイラつきの元であり、怒りを掻き立てるものであり、病ませるものになっている…ということです。
女は妊娠させられ、堕胎をさせられ、自分の体を傷つけ宿った命を殺させられる。
それは「互いの話し合いの上で」穏当に至った結論であり、決して男が無理やり押し付けたことではない。
でもまさに、「穏当な話し合い」によって、「女性が一方的に身体的な負担をあたかも当然のように引き受けなければならない」結論が導かれることそのものが、何かおかしいのではないか…という違和感。
写真を見てからしばらくモヤモヤしていたカナは、追いかけてきたホンダに対して「妊娠して堕した」と嘘をつきます。それは悪質で、まるで意味のない嘘なのだけど。
ホンダはあっさり、一瞬で信じるんですよね。それはつまり、カナがそうであっても全然おかしくないということ。
その気づきから、見知らぬ写真の当事者の物語は、カナの物語になっていくのです。
④繰り返される暴力シーンで気づかされること
カナは若くて美しくて、すると男がチヤホヤしてくれて、何でもわがまま聞いてくれて、何となくふわふわと生きていくことができる。
仕事はまあ、そこそこにこなして、毎日面白おかしく遊び歩いて、それでも怒られることもなくて、自分が何も与えなくても、そばにいてくださいと泣かれるくらいに求められる。
恵まれた生活。特権的な暮らし。
でも逆に言えば、カナの存在を支えているのは、「若くて美しい」だけしかない。
彼氏はカナから、何も与えてもらっていない。ただ、若くて美しいカナを、トロフィーのように手元に置ける。それだけの存在価値しかそこにはない。
カナは何も生み出さず、何も得ない。何も与えず、何も貰わない。
ホストクラブも脱毛サロンも、酒も煙草も恋愛も、タトゥーも鼻ピアスも、カナはただ消費するだけ。
消費して消えていく。走っても走っても前に進まないランニングマシンのように。
ナミブ砂漠の動物なら、水飲み場の水飲んで排泄して時々交尾して死ぬまでその繰り返しでいいのだろうけど、人間はそれでは気が狂う…のかもしれない。
カナの有り様は、おっさんが説教したくなる格好の対象にも見えそうです。
そんな消費ばかりしてるから病むんだよ! 雑巾掛けして生きる力を身につけろ!というおっさんのパワハラ的説教が似合いそう。
僕もおっさんなので、そういう気分になりそうなところもないではない…のだけど。
でも本作を観てると、それはやっぱり大事な何かを見落としてる、という気がしてきます。
カナの行為は、男女逆ならDVで無条件に断罪されそうなものだけど。
でもそんな気分にならないのは、暴力シーンが繰り返されるほどに、カナは暴力では絶対にハヤシに勝てないことが見えるから…ですね。
カナとハヤシは対等ではない。肉体という物理的な点で。男と女は対等じゃない。
女性にとっては、男と暮らすというのは「いざという時には力で制圧されてしまう相手と共に暮らすこと」なんですよね。
考えてみれば、それってめちゃくちゃ恐怖だ。
往々にして、男はそこが見えてない。
女は男に暴力では勝てず、暴力で屈服させられないのは男の側の「優しさ」に依存していて、だから男に甘えたりわがままを言ったりすることも正当化されるけど、でもそれはそれで女をスポイルしていってしまう。
そんな「当たり前の普通」の中に誰もが生きている。それがニッポンの砂漠に生息する野生のヒトの生態。
カナを病ませるのは、そんな当たり前の世界そのもの。
…というようなことが、ぼんやりと見えてくる。
これはキツイですね。世界からは逃げられないからね。
⑤突破口は飼い慣らされた生態からの脱却か…
そんなカナにとっての突破口…かもしれない…のようにも思えるのが、終盤に登場する二人の女性です。
おっとり喋るカウンセラーの女性(渋谷采郁)と、隣人の女性(唐田えりか)。
カウンセラーは、カナが自分を抑圧していると指摘し、「心の中では何を考えても自由」と言います。
カナはロリコンの例をあげて、「表面と心の中が違う人ばっかりだったら怖い」と言い、カウンセラーは「それはどうして?」と尋ねます。
内心の自由なんて、当たり前のことかと思ってましたけどね。不快になることを理由に内心の自由までとやかく言われることが多い昨今の風潮。
昔よりずっと厳格な奇妙な倫理観が、若い人を縛ってる感覚があります。カナも同様なんでしょうね。
隣人の女性とのシーンは途中から「キャンプだホイ」を歌い踊って火を飛び越える、常軌を逸した感じになっていくので、カナの見ている夢のようではあります。
「キャンプだホイ」は友達が出来て嬉しい歌なので、カナは友達が欲しい…のかな。
隣人の女性は過去になんかあったらしくて、「100年後にはみんな死ぬし」と達観して、今は熱心に英語を勉強しています。
要は「自立すること」への示唆…なのかな。
ナミブ砂漠ライブカメラの水場は人工物で、人間によって管理されてるんですよね。
そこに来る動物たちは野生のように見えるけど、実は飼い慣らされる…とも言える。
奔放なカナも野生のようで、実は男たちに飼い慣らされてる。何度も「水を飲ませてもらう」シーンがあるのはそういうことでしょうね。
ホンダからハヤシへ乗り換える辺り(それはようやくタイトルが出て映画が始まる辺りでもあります)から身に着ける鼻ピアスも、そう考えてみると家畜の鼻輪のように見える。
あれほど自由で奔放なように見えても、自立できない限り、家畜になってしまう。
まずはお手軽な水場から脱却することから、カナの本当の人生はスタートするのかもしれません。