Werckmeister Harmonies(2020 ハンガリー、ドイツ、フランス)

監督:タル・ベーラ

脚本:タル・ベーラ、クラスナホルカイ・ラースロー

原作:クラスナホルカイ・ラースロー

撮影:メドビジ・ガーボル

共同監督/編集:フラニツキー・アーグネシュ

音楽:ビーグ・ミハーイ

出演:ラルス・ルドルフ、ペーター・フィッツ、ハンナ・シグラ、デルジ・ヤーノシュ

①長回しでも観やすい作品

ハンガリーの田舎町。若い郵便配達員ヤーノシュは、音楽家エステルの身の回りの世話をしています。町には巨大なクジラを見せ物にするサーカスがやって来て、人々はやがて来る暴動の気配を感じています…。

 

タル・ベーラ監督は、2019年に「サタンタンゴ」の4Kレストア版上映を観ています。

7時間18分、休憩2回を挟む上映。もちろん、自分史上最長の映画体験でした。

その長さを乗り切ったことのあまりの感動に浮かされて、レビューではほとんど長さのことしか書いていない気がします。ほとんど内容に触れてない!

いかにもミーハーなようで恥ずかしいのですが、やはり7時間18分はそれだけ強烈な映画体験だったのでした。

 

タル・ベーラ作品の特徴は、尋常ではない長回し

「サタンタンゴ」7時間18分で約150カットです。単純計算で、1カットが3分くらいになりますが、体感ではもっともっと長かったような。

ただひらすら、1本道を男が歩いていく様子を映していく。ただその時間の経過だけを見せる。延々と見せる。

部屋の中で人々が踊り続ける。その様子を延々と見せ続ける。

「永遠とはこういうことを言うのか」と感じることができます。本当に、稀有な体験です。

 

今回上映されるのは、「サタンタンゴ」(1994)に続く作品。2000年公開の「ヴェルクマイスター・ハーモニー」です。

上映時間は2時間26分。おお、極めて常識的。

ただし全編37カットだそうです。1カット4分程度の計算になるから、「サタンタンゴ」以上かもしれないですね。

 

…と、いろいろと時間やカット数のことばっかり言ってますが。

実際観てみてどうだったかというと…

とても観やすかったです! それはもう、意外なくらいに。

確かに長回しは多くて、じっくりゆったりした時間を使って描かれていくんですが、1カットの中でも結構動きが多くて、ドラマが描かれていくんですよね。

「サタンタンゴ」にあった常軌を逸した「何も起こらない時間」は割と控えめで、より普通に近い描き方の映画になっていた気がします。

 

サタンタンゴに比べて観やすいのは、本作が明確な主人公ヤーノシュの視点で描かれていくから、というのが大きいでしょう。

ヤーノシュはおとなしい若者で、観客が共感しやすい人物です。

彼は働き者で、心優しく親切な人物なのですが、行く先々であれこれ頼まれ、眠ることもできずにうろうろと歩き回る羽目になっていきます。

本作には、お人好しのヤーノシュが周りの人にいいように振り回されて疲弊していく、古典的なコメディのような側面もあります。

 

②寓話としての物語

荒涼とした東欧の田舎の、寒々とした暗い風景。

ひと気の少ない、古めかしく寂れた街並み。

「サーカスが来る」「巨大なクジラがやって来る」という非日常のニュースも、高揚感ではなく何か悪いものがやって来るような、不吉さを感じさせるばかり。

じわじわと高まる不安感。そして暴力の気配…。

 

全体を覆う不穏なムード、人々の間に漂う怒りと閉塞感は、この時代のハンガリーの情勢を背景にしたものなのだろうと思います。

ですが、物語はシンプルに研ぎ澄まされ、抽象度の高い寓話になっているので、ハンガリーの現代史に詳しくなくても何の問題もなく理解することができます。

 

何をするでもなく広場に集まり、ギスギスしたムードで佇んでいる人々。何も持たない男たちは、恵まれない境遇の労働者たちを象徴する存在でしょう。

彼らが何を不満に思っていて、何を求めて暴動に走るのかは一切わからないのですが、彼らが仕事もせずに広場にたむろしていることから、何となく伝わるようになっています。

 

老いた音楽家エステル教養ある文化人。知識と分別を持ち合わせていて、人々を扇動する世の中のムードには流されない。しかし、暴動を阻止するほどの影響力を持つこともできません。

エステルの元奥さんは、ヤーノシュを使って、「風紀を正す運動」をエステルに指導させようとします。彼女は世界の秩序を保とうとする側、政治権力や経済力を象徴する存在でしょう。

暴動を阻止し、風紀を保とうとする彼女は正しい行いをしているとも言えるのだけど、彼女の言動は終始強制的・抑圧的であり、「イヤな感じ」なのが面白いですね。

③自然と芸術を愛する魂と、暴力の対比

そして、権力に使われ、権力者と文化人の間をとりもち、暴徒となる民衆とは一線を画すヤーノシュ。彼は「若者」の象徴のような存在ですね。

まだ生活に縛られてはいないから、労働者たちのように扇動されはしない。しかし、事態に抗うすべも持たず、ただ徒歩であっちこっちへ疲弊しながら歩き回ることしかできません。

 

ヤーノシュは天文学を愛し、天体の運行なんていう、実生活にはほぼ意味をなさない物事に美を見出す青年です。

また、広場に集まった人々がまったく関心を示さないクジラに強い興味を示し、驚きを持って見に行くのも彼だけです。

彼は知識や教養、自然や文化を愛する人物であり、だから音楽家であるエステルと心を通わせています。不穏な情勢の中にあって、政治よりも「ヴェルクマイスター音律」なんていう実利のなさそうな研究に没頭するエステルは、まさにヤーノシュの同類ですね。

 

そんな彼らが、時代のうねりの中で抗う力を持たず、翻弄されてしまう。

エステルは暴動回避のための調停に乗り出すのだけど、実質的な力は何も持たず、暴動は起きてしまう。

ヤーノシュは暴動の中に一人で置かれ、暴力がもたらす悲惨を一身に浴びて、心を壊されてしまう…。

 

自然の驚異や芸術に価値を見出すヤーノシュとエステルは、タル・ベーラ監督にとって分身であるだろうし、その描かれ方には温かなシンパシーがこめられてるように感じます。そこも本作の見やすいところですね。

④テーマと結びつく長回し

そのような物語の骨子と、長回しが密接に結びついているのも重要なポイントだと思います。

本作では、ヤーノシュがあっちこっちへ「お使い」に行かされ、延々と歩き回り続けるのですが、その道のりは一つ一つ、遠くて長い。

雨にぬかるんだデコボコの道を、ただ黙々と歩いていかなくちゃならない。

どこへ行くのにも、いちいちそれ。生きることは、面倒くさい退屈な工程の単調な繰り返しに他ならない。

 

日常の生活というものは、徒歩のスピードで展開していくものだし、それは実際にそれなりの「単調な時間」を要するものであって、我々が人生に感じるしんどさ、疲労感というものは、そこから繋がっている。

もちろん、感じるのは疲労感だけではなくて。

巨大なトラックやクジラがやって来る驚きであったり、病院の中で展開される暴力の恐ろしさであったり。

そういった感情の揺れも、それぞれにある一定の長さのひとつながりの時間と共に、感じることになる訳です。

長回しの時間を体感させることで、冗長な世界を生きることのリアルな感覚が伝わってくる。

 

そこは、「サタンタンゴ」の長回しとはずいぶん性格の違うものを感じました。

「サタンタンゴ」の長回しは、むしろ現実の感覚を解体していくんですよね。人々がただ踊り続ける様子を延々と(5分も、10分も)見続けることで、自分が何を見ているのか、意味がわからなくなっていく。

ゲシュタルト崩壊で文字の意味がわからなくなるのと似てる。同じ映像を見続けることで、映像のまとまりとしての意味が失われて、まるで異世界を見ているような異様な感覚になっていく…。

 

それに比べると、本作の長回しは現実の感覚を補強するものになっていて、似ているようでずいぶん違う印象です。

よく似た手法を使いつつも、まったく違う表現にしているのはさすがですね。