映画ドラえもん のび太の地球交響楽(シンフォニー)

監督:今井一暁

脚本:内海照子

原作:藤子・F・不二雄

キャラクターデザイン:河毛雅妃

総作画監督:河毛雅妃、中野悟史

音楽:服部隆之

主題歌:Vaundy

出演:水田わさび、大原めぐみ、かかずゆみ、木村昴、関智一、平野莉亜菜、菊池こころ、チョー、田村睦心、芳根京子、石丸幹二、吉川晃司

①子供に向けた優しい作り

苦手なリコーダーの練習に四苦八苦するのび太は、不思議な少女ミッカに出会います。のび太とドラえもんたちを音楽の達人と思い込んだミッカは、皆を地球軌道上に浮かぶ「ファーレの殿堂」に招待します…。

 

毎年恒例の映画ドラえもん。今年もオリジナル脚本です。

音楽をテーマに、勉強や運動だけでなく音楽も苦手なのび太が音楽の素晴らしさに気づいていく物語。

去年の「空の理想郷」はとても良かったんですよね。さて、今年はどうか…?

 

感想を先に書くと、良かったところもあり、微妙だったところもあり。

全体にゆったりと穏やかな作りで、小さな子供の観客に向けて、刺激の強過ぎない優しい映画になってる印象を受けました。

今回、敵が出てこない。悪意ある人間の敵キャラがいない。

出てくる人は基本的に善人だけで、天災に立ち向かう物語になっています。

 

「映画ドラえもん」がきちんと子供向けに作るのはいちばん大事な基本なので、そこは良かったと思います。

「ゲゲゲの謎」の高評価とかは、あくまでも幸福な例外だと思うので。

小さい子が怖がらない、安心して観られることはまずは大事なところでしょう。

 

小さな子供に向けて、どぎつくない、わかりやすい物語を用意した上で、タイムパラドックスや道具を使った伏線などの本格的なSF要素を加えていくのが藤子・F・不二雄先生の流儀。

本作も、「4万年前の笛」の存在や、前半に出てきた道具を使った伏線をいろいろ用意して、子供たちにSFの面白さを伝えようとしていたと思います。

そこは確かにF先生らしさですね。

 

②敵キャラ不在でスリルには欠ける

一方で、敵キャラが存在せず、終盤になるまでピンチらしいピンチが一切起こらないので。

さすがに、映画としてはスリルに欠ける。

平和なシーンが延々と続き、ちょっと退屈…と感じてしまうところはありました。

 

F先生の作ってきた物語でも、悪役は結構シビアだったり、大人の怖さを見せつけてきて、子供たちをドキドキさせるところがありました。

本作には、それがないんですよ。ドキドキしない。うわあどうなっちゃうんだ…という、心配して引き込まれる要素がない。

「ファーレの殿堂」を解放していく物語は進行していって、画面はそれなりに派手なのだけど、ハラハラドキドキがないので、なかなか感情移入が起こらないんですね。

 

観ていて思ったのは、人の悪意みたいな負の感情が、全体からきれいに排除されている。

そこは敵がいないだけでなく、ジャイアンとスネ夫の描き方にも顕著なんですよね。

まあ、この二人が映画だといい子になるのはいつものことで、ある程度しょうがないところではあるのだけど。

口ではのび太をからかうようなことを言いながら、リコーダーの練習にはしっかり付き合うし、決してのび太を本当のところでは傷つけない。

前にも書いたけど、パロディであるはずの「僕とロボコ」を見ているような。

ジャンプ漫画「僕とロボコ」にはジャイアンとスネ夫的なキャラが出てきて、でもその二人は主人公のことが好きで好きで仕方がない…というのがギャグとして描かれます。今や本家もそうなっちゃってる…)

 

まあ、そこは時代の変化によるもので、本作だけの問題じゃないんですけどね。

F先生が構築した「ドラえもん」という作品世界はどうしても変質していくし、どこかいびつな、奇妙なものにならざるを得ない。

ポリコレが行き届いた結果、まるで前作「空の理想郷」の、洗脳によって理想化された世界のような…

 

…などと、映画のスリルに没入できなかったのでついつい、余計なことを考えてしまいました。

③映画館が生きるクライマックスの盛り上がり

そのスリルですが、終盤にまとめてやって来ます。

ラスト、音楽を食うバルンガ的な生命体ノイズが襲来して、のび太たちとファーレの殿堂が協力して音楽で立ち向かう…というクライマックスは、大いに盛り上がります。

 

そこはやっぱり、劇場映えする音楽というテーマが効いていて。

映画館ならではの迫力ある音響と映像が、ここぞとばかりに生きてくる。そこまでの眠気も吹っ飛びます。

 

特に、のび太たちが宇宙に放り出されて、音が消え、完全な無音になるシーン。

無音の怖さ。不安。映画館という環境でそれを実体験して、そこから逆説的に音楽の素晴らしさに思いが至る。

ここは、小さな子供たちにも説得力があったんじゃないでしょうか。

映画館での上映という環境を生かしているという点では、本作はシリーズの中でも随一だったんじゃないかと思います。

④蛇足1・しずかちゃんのバイオリン問題

…というところまでで終わってもいいんだけど。

以下は蛇足。重箱の隅つつきです。

 

観ていてどうしても気になったのが、しずかちゃんがバイオリンを担当させてもらえず、パーカッションを当てがわれていること。

…いや、しずかちゃんと楽器を組み合わせるなら、バイオリンじゃないですか。

それがスルッと無視されて、誰も何も言及しないまま、バイオリンはスネ夫にとられてしまってる。

 

たぶん製作意図としては、しずかちゃんのバイオリンはギコギコ〜で下手くそ、というのがキャラクターの一部なので。

今回は物語上、上手くならざるを得ないという都合で、しずかちゃんのキャラを壊さないために、こういう展開にしたのかな?とは思うのですが。

 

しかしそれであれば、しずかちゃんが「どうして私はバイオリンじゃないのよ!」とか、「どうしてスネ夫さんが…」とか、それを受けてみんなが「だって…なあ?」と顔を見合わせるとか。

「しずかちゃんのバイオリンが下手」ということをネタにしたひとくさりが、どうしても必要なんじゃないでしょうか。

 

​…と書いて思ったけど、そういうのもできないんでしょうね。「下手をネタに笑いにする」というのが、本作全体の「のび太の下手が生きる」というテーマと折り合いが悪いので。

のび太と同じように描くなら、しずかちゃんがバイオリンを必死で練習して、のび太のリコーダーと同じペースで上手くなっていく…という展開を描かざるを得ないけど、そうなると話が変わっちゃいますね。

 

でも、その一方ではジャイアンやスネ夫は、ろくに練習もせずにチューバやバイオリンという難しい楽器をあっという間に弾きこなせるようになっていく。

この辺も、道具の助けがあるのかないのか、曖昧で。助けがないならやっぱり不自然だし、助けがあるならしずかちゃんがバイオリン上手くなったって良かったのでは…と思ってしまいます。

 

なんというか、「ひみつ道具の力で普通だったらできないことができる」という楽しさが「ドラえもん」の基本なので、今回も「道具の力でみんな楽器が上手くなる」で良かったんじゃないかなあ…という気がします。

それで、しずかちゃんも「上手にバイオリンを弾く」という夢が叶えば良かった。冒険の後は道具の効き目が切れて、また下手に戻ればいい訳なので。

 

本作でそれを避けてるのは、「頑張って練習すれば上手になる」という教訓みたいなことを言いたいのかなと思うんですが、楽器の習得というのはそう簡単なものじゃない。

それこそ才色兼備なしずかちゃんがバイオリンだけは下手、という設定からも、それが伝わってきてしまう訳で。

そういえば、「ジャイアンが音痴」も完全無視されてますね。音楽的センスは、歌にも楽器にも共通することだと思うのだけど…。

 

いろいろとやっぱり、噛み合ってない。今回作り手が描きたい物語と、キャラクターの基本的な設定が上手く噛み合ってない。

要は、キャラクターを上手く使えてない。

「ドラえもん」としては、これは結構大きな欠点なんじゃないかな、と思います。

⑤蛇足2・4万年前の家宝問題

最後に。いろいろ無理のある設定の目につく作品ですが、中でも強烈だったのは、「4万年前の笛が、先祖代々付け継がれている」という設定です!

これ、すごいですね。4万年前だよ! 旧石器時代。まだマンモスやネアンデルタール人がいる頃

 

SFでもそんなネタまだないですよね。あるのかな…。

説得力を持たせることが、できるのかな。旧石器時代人から、親から子へ、コツコツと引き継いで、いくつもの文明を超え、何千世代を乗り越えて、現代の歌手がツアーに持ち歩いているという…。

おばあちゃんから受け継いだ先祖代々の家宝が、実は4万年前のオーパーツだった!…っていう設定で斬新なSF小説が…書けるだろうか。ボツかな。

 

これなんかも、もしF先生だったら、「上野の博物館にあった発掘された笛がそれだった」くらいに留めていたんじゃないかなという気がします。

「博物館にあった」と「先祖代々受け継がれて持っていた」との間には、SF的なリアリティの点でかなり大きな違いがあると思うのだけど、その辺はあまり気にならない人たちが作っているのだなあ…というのは、とても感じました。

これもまあ、細かい重箱のスミですが。「ドラえもん」という作品にとっては、結構大事なところなんじゃないかな…とは思います。すいません細かくて。