Wish(2023 アメリカ)
監督:クリス・バック、ファウン・ヴィーラスンソーン
脚本:ジェニファー・リー、アリソン・ムーア
製作:ピーター・デル・ヴェッコ、フアン・パブロ・レイジェス
音楽:デヴィッド・メッツガー
出演:アリアナ・デボーズ、クリス・パイン、アラン・テュディック、アンジェリーク・カブラル、ヴィクター・ガーバー
吹替:生田絵梨花、福山雅治、山寺宏一、檀れい、鹿賀丈史
①抽象性の高いお話
マグニフィコ王が魔法によって治めるロサス王国。17歳の少女アーシャは、王の秘書になるために城へ行きますが、王の本当の姿を見て失望してしまいます。亡き父との思い出の場所で歌ったアーシャの元に、空から願い星・スターがやって来ます…。
久しぶりに、ディズニーの長編アニメーションを観ました。
あまり…興味はそそられなかったんですよね。前は割と追いかけていたのだけど、ヒーローものと一緒でやや食傷気味になってるのかもしれない。
最近よく言われる、ポリコレに走りすぎ…のうんざり感も大きいと思います。
それはもう、正しい正しくないの問題じゃないんですよね。それが正しいのだとしても、そればっかりだと疲れてしまう。
でも、子供たちと観に行った奥さんがすごくハマっていたんですよね。「めっちゃ泣いた」って言ってて。
日頃、割とシニカルな見方をする人なのだけど。
それでちょっと興味が湧いて、時間も合ったので観てきました。
正直「どこで泣く?」と思ったので後で聞いてみると、「願いを皆に返すシーンで、皆の願いがショボかったのがすごく良かった」と言われて。
なるほど!と思いました。確かに。
観て思ったのは、すごく抽象性の高いお話だなあ…ということ。
メッセージ性が強い…というのか。
テーマ性ありきで、物語はそれに付随するものになっている。だから世界観はふわっとしていて、いろんなところで雑さとか、スカスカさを感じる。
「正しいメッセージ」が中心にあるという点で、今のディズニーのポリコレ路線を象徴する作品とも言えるかもしれない。
…でも一方で、真摯さを感じる。
決して「政治的に正しいスローガン」ではなく、作り手が大事だと思うテーマ、届けたいテーマに誠実に取り組んでいる、そんな熱量を感じました。
そしてそれは、決して穏当な、当たり障りのないメッセージではない。
挑発的でさえある、人の心をざわつかせるメッセージになっている。
そんな印象を受けて、何だかとても興味深かったです。
100周年記念作品だから、もっとマイルドな、万人に好まれるような無難な作品でも良かっただろうにと思うけれど。
そこでこういうチャレンジングな作品をぶつけて来るのが、ディズニーというスタジオの底力かもしれません。
②一見して悪に見えないマイルドな支配構造
本作で悪役となるのはマグニフィコ王。歌の上手いハンサムな王様。
国民はみんな王様を慕っていて、王国には明るい歌と笑いが溢れている。
一見すると…というか、実際に何の問題もないと思える、幸せな王国。それを支える良い王様。
国民たちはある年齢になると、自分のいちばんの「願い」を王様に差し出す。
「願い」を差し出すと、その願いは忘れてしまう。だから、心は軽くなり、心配ごとはなくなる。
王様は「願い」を大切に保管し、月に一度、一人だけ願いを叶えてくれる。
そういう支配体制で、王様も国民もみんな満足して、平和に暮らしている。
でも、王様は「願い」を選別し、国の治安を危機に晒す可能性のある「願い」は決して叶えてくれない。
おじいさんの「歌を歌って皆の心を動かす」という願いが決して叶えてもらえないことを知ったアーシャは、王様から「願い」を取り戻し皆に返すことを目指して動き出します。
これが本作の基本的な対立構造なのだけど。
一見して、王様の側にも「理がある」ように思えるんですよね。少なくともそこまで明確な「悪」とは言えないように思える。
「願い」というのは「現状を変えたいという思い」ですからね。現状への不平不満というものが、どうしても伴う。
そんな「願い」を取り上げることで、不平不満は取り除かれ、皆が平和に暮らせる。
一つ一つの「願い」は小さなものだから、失ってもほとんど気づかない。「願いが叶わない苦しみ」からも解放され、一人一人も幸せでいられる。
それに対するアーシャは、おじいさんの願いが叶わないという個人的な「わがまま」にも見える。
勝手なわがままで王国全体の平和を崩そうとするアーシャと、それを止めて王国の平和を守ろうとする王様。そんな構図にも、見える。
そんな基本的なフレームが、あえて選ばれています。そこが、実にチャレンジングなところだと思うのです。
③マイルドな支配と家父長制からの脱却
おじいさんの願いが叶わないという個人的な失望から、アーシャはすぐに、おじいさんだけでなく皆の願いが解放されるべきだ…という考えに移り変わっていきます。
そこには理屈はなく、ただアーシャが「そう感じた」ものとして、説明なく描かれていきます。だから、割と唐突にも見えます。
物語はそこから仲間を巻き込んだ「レジスタンス」の様相になっていき、体制をひっくり返す革命の物語になっていきます。
そこに説明がないのも、やはりわざとだと思うんですよね。
理屈じゃなく、この王様の支配を「嫌なもの」と感じて、否定することができるかどうかが、観客にも問われている。
自分のいちばん大切なものを取り上げられて、管理してもらい、平穏を与えてもらう。そんな生き方はまさに飼い慣らされた家畜であって、絶対に脱却すべきものだ…ということを、アーシャと同じように直感することができるかどうか。それが問われている。
個人の自由や希望と引き換えに保たれる全体という、「個人の尊厳vs全体の支配」という対立の構図。それ自体は昔ながらの、オーソドックスなものですね。
それが、優しい王様とニコニコした民衆という見せかけの影に隠されている。
「失望することがないように、あらかじめ希望を奪っておいてあげる」という優しい支配。
支配構造がわかりやすいものじゃなく、気づきにくくされているという。そこは非常に現代的な描かれ方だと思います。
自由を奪うことで「守ってやる」というこの発想は、まさに家父長制的なものでもあります。
アーシャと王妃が男性による支配から脱するという、本作はフェミニズムの物語でもあります。そこは結構あからさま。
あともう一つ感じるのは、本作のマイルドな支配体制というのは、メディアによる人々の洗脳、愚民化…というものも感じさせるものになっていますね。
「夢は自分で叶えるものじゃなく、叶えてもらうこと」という洗脳。ここに何となく、商業的なディズニー的発想への自己批判も、いくらか含まれているような気がしました。
④フェミニズム的規範が邪魔する見えにくさ
そういう、結構骨太なメッセージ性を感じたのだけれど。
ただ、物語はかなり粗いので。
分かりやすさを優先してか、途中から王様が暴走して「誰もがそれと分かる悪」になってしまうので、その辺のメッセージ性はかえってボヤけてしまった感はあります。
王様は悪い魔法に取り憑かれて暴走しただけで、元の支配の動機は「いいもの」だったのだから、許してあげてもいいんじゃないか…という気持ちになっちゃうんですよね。
本作のテーマ性はそこにはなくて、王様の元々の支配こそが「人の尊厳を奪う」という大罪であり、否定すべきものだから、王様を許さないのが必然なのだけど。
そこが、かえって分かりにくくなってしまった。
王様を愛していたはずなのに、くるっと手のひら返して、バッサリと切り捨ててサバサバしている王妃の姿に、「フェミニズムはこれだから怖い」と感じちゃう人も多い…のではないかな。
王妃は王様の「願いを管理する」という行動には反対していなかったので、最後は「王様と一緒に反省する」という立場に立つべきだと思うのだけど。
そこは、フェミニズム的な正しさが優先されちゃったのだろうか。
「アーシャの父親」は初めから取り除かれていて、出てくる男は全員そろってバカか乱暴者、あるいはバカな乱暴者。善良な男は既に死んだ男だけ。男性が活躍するシーンなんていう反動的なものが決して入り込まないようにされている。そういう作りは、やはりうんざりさせられます。
本作は決して、フェミニズムだけの映画じゃないと思うのでね。
もっと普遍的な、夢を他人に委ねないこと、支配されないことの重要性を伝えていると思うので。
フェミニズム的な規範でそれが見えにくくなっているのは、とてももったいないな…と感じました。
こういうところが、ポリコレが敬遠されちゃうところではあると思うので。この辺の感じ方をもうちょっと丁寧に扱っていくことが、この先は大事になるんじゃないかなあ…と思うのです。
でないと、かえって大きな揺り戻しが来ちゃうのではないかな、と。
前に映画館で観たディズニー長編はこれでした。だいぶ前…